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賢治とトシ(迷いと証明)~『賢治の北斗七星』から2 [思うこと]
1.旅立ち
保阪嘉内との衝突の後、
賢治は深く自分をみつめ直したのだろうということを前回の記事で書きました。
わだかまりを残しては真の反省・改心はあり得ないと思います。
「ありのままの姿で生き、そこから何かをつかんでいくことへの覚悟」
と書きましたが、賢治が保阪嘉内という鏡を通して見た自分の姿は
「修羅」ではなかったでしょうか。
我に返って信仰を見直したとき
法華経、日蓮、国柱会に対しての迷いが生じたのだと思います。
信じてはいるが、他人に「これのみが正しい」と言い切ることができなくなったのです。
それはきっと信仰を心のよりどころにしていた賢治には
たいへんなことだっただろうと思います。
家出し上京していた賢治は、トシの病気の再発により花巻に戻り
農学校の教師の職を得て、新しい生活に入りましたが
心の深い部分においても新たな自己の道への旅立ちをしたのです。
詩集『春と修羅』の一作目『屈折率』は、
その第一歩を踏み出した賢治の心境かと思われます。
2.トシ
さて、トシと賢治の関係、信仰を考えてみます。
トシは日本女子大で成瀬仁蔵校長の影響のもと、
キリスト教やタゴール、メーテルリンク、エマソンの思想に触れています。
在学中、兄とは頻繁に書簡のやりとりをしていたことからも
少なからず賢治にもその影響があったであろうと推測できると思います。
そして彼女の信仰は、兄賢治のように、「何が何でも法華経」ではなく
宗派や宗教の違いをこえた宇宙の根本生命への信仰によって人びとは結ばれ、世界平和も実現する (『賢治の北斗七星』)
というものでした。
トシにとって大切だったのは、ひとつの宗教を選びとることではなく
「自分と宇宙との正しい関係」(トシ『自省録』)を得ることだったのではないでしょうか。
(※これらのことは山根知子著『宮沢賢治 妹トシの拓いた道』に詳しい)
トシの死後、賢治は数々の挽歌で彼女の“行方”を安じています。
それは恐らく、法華経以外は邪宗であり、
信じないものは地獄に堕ちると説いた日蓮の影響だと思いますが
トシが法華経のみを信じていたわけではないことを
賢治自身がよく知っていたからではないでしょうか。
もしかしたら生前、トシが自分の宗教観を話し
賢治と多少たりとも議論になったこともあるのかもしれません。
一般にトシも賢治と同じ法華経を信じていたように言われていますが
それは詩『無声慟哭』の「信仰を一つにするたつたひとりのみちづれのわたくし」
というフレーズからでしょうが、
「一つにする」というのは同じ宗教を信じるということではなく
お互いに理解しあおうとする、話し合える、という意味ではないのでしょうか。
トシが自身の本当の考えを話せる相手は、
兄・賢治しかいなかったということなのではないかと思います。
臨終の床で、ひとり旅立とうとしている妹に、
頼みの兄であるはずの賢治は、
この道が間違いないんだ、法華経さえ信じていればいいんだと
はっきり言いきってやることができなかったのです。
なぜなら自分自身も迷いの底にいるのだから。
ただわたくしはそれをいま言へないのだ
(わたくしは修羅をあるいてゐるのだから) (『無声慟哭』)
賢治の哀しみが深いのは
大切な妹を導いてやることができなかったからではないでしょうか。
『永訣の朝』の「Ora Orade Shitori egumo」(あたしはあたしでひとりいきます )
というトシの言葉は
「私は私の信ずる道を行きます」ともとれないこともありません。
賢治は、トシにどれだけついて行ってやりたかったか、
たとえトシの行く先が地獄のような所であっても!
「わたくしにいつしよに行けとたのんでくれ
泣いてわたくしにさう言つてくれ」(『松の針』)
という賢治の叫びが記されています。
賢治自身に迷いがなければ恐らく
「法華経を、日蓮聖人を信じていれば大丈夫だよ」というはずでしょう。
そして賢治自身も何も不安に思うことはないでしょう。
賢治には妹の耳元で、お題目を唱えてやることしかできなかったのです。
「嘉内とトシ、二人の大切な人にさえ
正しい道(宗教)を証明して見せることも俺にはできないのか。
賢治の深い悲しみと怒り、すなわち修羅とはそういうことではないでしょうか。
《ヘツケル博士!
わたくしがそのありがたい証明の
任にあたつてもよろしうございます》(『青森挽歌』))
賢治がさがしに行きたかったのは
ジョバンニがカムパネルラとはぐれて求めたかったものと同じ。
正しい考えを「証明」すれば
誰もがみな幸せになれるはず…。
そして、宗教が目的ではなく、みんなのほんとうの幸いであり、
宗教はその手だての一つにすぎないことに
長い時間をかけて気づいていった、その変容の集大成が
『銀河鉄道の夜』なのではないでしょうか。
3.まとめ
嘉内との衝突によって
目が覚めた賢治は、迷いを解消し法華経が正しいことを証明しようと
新しい旅立ちをした。
賢治はその迷いの跡、証明にいたる道筋を
心象スケッチという方法で描き記すことをした。
ところが一年余りで、正しい道を示してやることもできないまま、
最愛の妹・トシはたった一人で逝ってしまった。
いっそうの苦悩をさらけ出してまで克明に記したのは何故か、
一番に見せたかったのは、嘉内ではなかったか。
己が「ひとりの修羅」でしかないと悟ったことを
嘉内に差し出したのではないか。
あるいは、失われたその後の書簡には
それらのことが綴られていたのかもしれないが。
自分の心が歩む道を赤裸々に伝えることは
お互いに相手を信頼し、尊敬しあって、共に歩む気持ちでなければできないこと。
もし、わだかまりがあったり本心では訣別しているような関係になってしまったなら、
かつて苦楽を共にし、心を打ち明けあい、
手に取るように相手の想いを分かり合えるような関係だった相手には、
とてもそのようなスケッチ=詩集『春と修羅』など
送る気持ちにはなれないはず。
賢治は、保阪嘉内とトシ、愛し尊敬し大切に思っていたふたりとの関わりによって
自己に向き合い、その真っ暗な深淵に飛び込んでいく力を得て
どこまでも突き進んでいったのだと思います。
〈おまけ〉
トシが日本女子大に入ったのは
大正4年、賢治が盛岡高等農林に入った年と同じです。
賢治の進学にあれほど難色を示していた父が、
妹トシに対しては上京してまでの進学をすんなり許したのは
彼女が才女だったためだけではなく、
その数ヶ月前に起きた恋愛がらみの中傷事件によるものであったことが、
末妹クニの長男・宮沢淳郎の『伯父は賢治』によって明らかにされました。
それに収録されたトシの綴った『自省録』には、
彼女の深い後悔と苦しみが刻まれています。
トシは才女で、非の打ち所のない立派な女性だったといわれてきて
しかも熱心な法華経信者だったとされてきた年月は長い。
彼女の姿を側で見てきた賢治だからこそ
なおさらトシの死を悼み、救ってやりたい、天上に生まれかわらせてやりたいとの思いは
いっそう深かったのだと思います。
賢治にせよ、トシにせよ、
あまりに理想像を創りあげてしまうと、見えなくなってしまうものが多いのではありませんか。
そしてそれは、賢治やトシの真の心を汲み取ることを遮断してしまいます。
嘉内に対しても言えることで
ふたりの友情の在り方を見誤ってしまうと
その後の賢治の誠実や生き様をも見誤り、
真摯に精一杯生きた彼らの道のりを知ることで得られるはずの
最も美しく大切なものを捨ててしまうことに他ならないと思います。
保阪嘉内との衝突の後、
賢治は深く自分をみつめ直したのだろうということを前回の記事で書きました。
わだかまりを残しては真の反省・改心はあり得ないと思います。
「ありのままの姿で生き、そこから何かをつかんでいくことへの覚悟」
と書きましたが、賢治が保阪嘉内という鏡を通して見た自分の姿は
「修羅」ではなかったでしょうか。
我に返って信仰を見直したとき
法華経、日蓮、国柱会に対しての迷いが生じたのだと思います。
信じてはいるが、他人に「これのみが正しい」と言い切ることができなくなったのです。
それはきっと信仰を心のよりどころにしていた賢治には
たいへんなことだっただろうと思います。
家出し上京していた賢治は、トシの病気の再発により花巻に戻り
農学校の教師の職を得て、新しい生活に入りましたが
心の深い部分においても新たな自己の道への旅立ちをしたのです。
詩集『春と修羅』の一作目『屈折率』は、
その第一歩を踏み出した賢治の心境かと思われます。
2.トシ
さて、トシと賢治の関係、信仰を考えてみます。
トシは日本女子大で成瀬仁蔵校長の影響のもと、
キリスト教やタゴール、メーテルリンク、エマソンの思想に触れています。
在学中、兄とは頻繁に書簡のやりとりをしていたことからも
少なからず賢治にもその影響があったであろうと推測できると思います。
そして彼女の信仰は、兄賢治のように、「何が何でも法華経」ではなく
宗派や宗教の違いをこえた宇宙の根本生命への信仰によって人びとは結ばれ、世界平和も実現する (『賢治の北斗七星』)
というものでした。
トシにとって大切だったのは、ひとつの宗教を選びとることではなく
「自分と宇宙との正しい関係」(トシ『自省録』)を得ることだったのではないでしょうか。
(※これらのことは山根知子著『宮沢賢治 妹トシの拓いた道』に詳しい)
トシの死後、賢治は数々の挽歌で彼女の“行方”を安じています。
それは恐らく、法華経以外は邪宗であり、
信じないものは地獄に堕ちると説いた日蓮の影響だと思いますが
トシが法華経のみを信じていたわけではないことを
賢治自身がよく知っていたからではないでしょうか。
もしかしたら生前、トシが自分の宗教観を話し
賢治と多少たりとも議論になったこともあるのかもしれません。
一般にトシも賢治と同じ法華経を信じていたように言われていますが
それは詩『無声慟哭』の「信仰を一つにするたつたひとりのみちづれのわたくし」
というフレーズからでしょうが、
「一つにする」というのは同じ宗教を信じるということではなく
お互いに理解しあおうとする、話し合える、という意味ではないのでしょうか。
トシが自身の本当の考えを話せる相手は、
兄・賢治しかいなかったということなのではないかと思います。
臨終の床で、ひとり旅立とうとしている妹に、
頼みの兄であるはずの賢治は、
この道が間違いないんだ、法華経さえ信じていればいいんだと
はっきり言いきってやることができなかったのです。
なぜなら自分自身も迷いの底にいるのだから。
ただわたくしはそれをいま言へないのだ
(わたくしは修羅をあるいてゐるのだから) (『無声慟哭』)
賢治の哀しみが深いのは
大切な妹を導いてやることができなかったからではないでしょうか。
『永訣の朝』の「Ora Orade Shitori egumo」(あたしはあたしでひとりいきます )
というトシの言葉は
「私は私の信ずる道を行きます」ともとれないこともありません。
賢治は、トシにどれだけついて行ってやりたかったか、
たとえトシの行く先が地獄のような所であっても!
「わたくしにいつしよに行けとたのんでくれ
泣いてわたくしにさう言つてくれ」(『松の針』)
という賢治の叫びが記されています。
賢治自身に迷いがなければ恐らく
「法華経を、日蓮聖人を信じていれば大丈夫だよ」というはずでしょう。
そして賢治自身も何も不安に思うことはないでしょう。
賢治には妹の耳元で、お題目を唱えてやることしかできなかったのです。
「嘉内とトシ、二人の大切な人にさえ
正しい道(宗教)を証明して見せることも俺にはできないのか。
賢治の深い悲しみと怒り、すなわち修羅とはそういうことではないでしょうか。
《ヘツケル博士!
わたくしがそのありがたい証明の
任にあたつてもよろしうございます》(『青森挽歌』))
賢治がさがしに行きたかったのは
ジョバンニがカムパネルラとはぐれて求めたかったものと同じ。
正しい考えを「証明」すれば
誰もがみな幸せになれるはず…。
そして、宗教が目的ではなく、みんなのほんとうの幸いであり、
宗教はその手だての一つにすぎないことに
長い時間をかけて気づいていった、その変容の集大成が
『銀河鉄道の夜』なのではないでしょうか。
3.まとめ
嘉内との衝突によって
目が覚めた賢治は、迷いを解消し法華経が正しいことを証明しようと
新しい旅立ちをした。
賢治はその迷いの跡、証明にいたる道筋を
心象スケッチという方法で描き記すことをした。
ところが一年余りで、正しい道を示してやることもできないまま、
最愛の妹・トシはたった一人で逝ってしまった。
いっそうの苦悩をさらけ出してまで克明に記したのは何故か、
一番に見せたかったのは、嘉内ではなかったか。
己が「ひとりの修羅」でしかないと悟ったことを
嘉内に差し出したのではないか。
あるいは、失われたその後の書簡には
それらのことが綴られていたのかもしれないが。
自分の心が歩む道を赤裸々に伝えることは
お互いに相手を信頼し、尊敬しあって、共に歩む気持ちでなければできないこと。
もし、わだかまりがあったり本心では訣別しているような関係になってしまったなら、
かつて苦楽を共にし、心を打ち明けあい、
手に取るように相手の想いを分かり合えるような関係だった相手には、
とてもそのようなスケッチ=詩集『春と修羅』など
送る気持ちにはなれないはず。
賢治は、保阪嘉内とトシ、愛し尊敬し大切に思っていたふたりとの関わりによって
自己に向き合い、その真っ暗な深淵に飛び込んでいく力を得て
どこまでも突き進んでいったのだと思います。
〈おまけ〉
トシが日本女子大に入ったのは
大正4年、賢治が盛岡高等農林に入った年と同じです。
賢治の進学にあれほど難色を示していた父が、
妹トシに対しては上京してまでの進学をすんなり許したのは
彼女が才女だったためだけではなく、
その数ヶ月前に起きた恋愛がらみの中傷事件によるものであったことが、
末妹クニの長男・宮沢淳郎の『伯父は賢治』によって明らかにされました。
それに収録されたトシの綴った『自省録』には、
彼女の深い後悔と苦しみが刻まれています。
トシは才女で、非の打ち所のない立派な女性だったといわれてきて
しかも熱心な法華経信者だったとされてきた年月は長い。
彼女の姿を側で見てきた賢治だからこそ
なおさらトシの死を悼み、救ってやりたい、天上に生まれかわらせてやりたいとの思いは
いっそう深かったのだと思います。
賢治にせよ、トシにせよ、
あまりに理想像を創りあげてしまうと、見えなくなってしまうものが多いのではありませんか。
そしてそれは、賢治やトシの真の心を汲み取ることを遮断してしまいます。
嘉内に対しても言えることで
ふたりの友情の在り方を見誤ってしまうと
その後の賢治の誠実や生き様をも見誤り、
真摯に精一杯生きた彼らの道のりを知ることで得られるはずの
最も美しく大切なものを捨ててしまうことに他ならないと思います。
賢治と嘉内の関係(自省と決意)~『賢治の北斗七星』から [思うこと]
「嘉内は、親交、対立、離別、そして心友としての尊敬の回復という友情のドラマを通して、賢治の人間的・思想的成長に、決定的にかかわった人です。」
こう三上さんが書かれているとおり
賢治は保阪嘉内から生涯大きな影響を受けたのだと思っています。
そして宮澤賢治という人を深く理解しようとするとき
保阪嘉内のことを抜きにしては考えられないとも。
盛岡高等農林卒業後の四年間が、
賢治にとっては最も暗く苦しい時期でした。
苦悩と先の見えない暗闇のなかで、賢治の支えは法華経であり、
共に同じ道を進もうと誓い合った友への切実な望みは
信仰も同じくすることでした。
父との衝突が増えるほど
「いっそう激しい苦悩、ときには絶望、そしてその反動としての狂信、嘉内への信仰の強要、懇願・哀願」 が強くなっていきます。
ところが、家出・上京した賢治に待っていたのは
賢治の期待に反した
決定的な嘉内の拒絶でした。
大正10年7月18日がその日だと言われています。
そして、それが二人の訣別だと。
それは絶交のニュアンスを含み、その後は形の上だけの交際かのように
されてきたのではないでしょうか。
ある時から、私はこのことに疑問をもってきましたが
この本を読み、さらにそうではないのでは、という思いを強くしました。
このファナティックな信仰、相手の魂の救済という善意があるにせよ、嘉内に対して見せた激しい強要、それに応じなかった嘉内の矜持、賢治は七月から八月の悲嘆の一月のなかで、自分の信仰を他人の魂の内部にまで乱暴にふみ入って強要することへの誤りに、深く深く気づいたのでしょう。これは賢治の生涯と思想の展開をみれば、あきらかだと思います。
賢治は二一年夏の一ヶ月間に、みずからが行った嘉内への人間的非礼を恥じ、信仰を強要することの誤りをさとり、他の信仰や価値観への寛容ということに目ざめていったのでしょう。
…そうだ、そうに違いない。
わかっていたようで、わかってなかった。
かたくなに、自分だけが正しくて他人は間違っていると思い続けていたのだとしたら
こんなに愚かなことはない。
賢治がもし、いつまでも心にわだかまりを持ったまま
嘉内に歩み寄ることをしなかったのだとしたら
そんな人間は、傲慢で、独りよがりでわからずや、ということだ…
賢治は、「こんな事では一人の心をも理解し兼ねると思って」(書簡197)
(おそらく泣きながら?)肉を口にし、深く深く考えたのでしょう。
結局肉食をしたってわからなかったかもしれませんが。
「文壇という脚気みたいなもの」(同)という言葉のうしろには
自分を見つめることをおろそかにし、他人に“形”を強要したことへの
反省がみえるような気がしますが、どうでしょうか。
花巻に帰り、農学校の教師となった賢治が
12月頃に出した嘉内あて書簡199には
「何からかにからすっかり下等になりました。(中略)けれどもそれが人間なのなら私はその下等な人間になりまする。」
とあります。
ここには、地に足の着かない理想ばかり思い描いていたプライド高い人間から、
しっかりと自分をみつめる人間へと変わった賢治がいます。
ありのままの姿で生き、そこから何かをつかんでいくことへの覚悟が
現れているように思えてなりません。
「春になったらいらっしゃいませんか」
…私はもう、あの以前の私ではありませんから…
そしてそれゆえに
その後の二人の交際も元のように
あるいはそれ以上に、深く信頼あるものになっていったに違いないと確信します。
嘉内に拒絶されたあの日から賢治は、
盲信的・狂信的だった法華経を根本から見つめ直し、
外側に向いていたその目を
自分自身の内側へと向ける覚悟と勇気を持ったのではないでしょうか。
その延長上に妹トシとの関わりが絡んでくると思いますが
それはまた次回の記事へ。
※太字は『賢治の北斗七星』(三上満)の抜粋です
こう三上さんが書かれているとおり
賢治は保阪嘉内から生涯大きな影響を受けたのだと思っています。
そして宮澤賢治という人を深く理解しようとするとき
保阪嘉内のことを抜きにしては考えられないとも。
盛岡高等農林卒業後の四年間が、
賢治にとっては最も暗く苦しい時期でした。
苦悩と先の見えない暗闇のなかで、賢治の支えは法華経であり、
共に同じ道を進もうと誓い合った友への切実な望みは
信仰も同じくすることでした。
父との衝突が増えるほど
「いっそう激しい苦悩、ときには絶望、そしてその反動としての狂信、嘉内への信仰の強要、懇願・哀願」 が強くなっていきます。
ところが、家出・上京した賢治に待っていたのは
賢治の期待に反した
決定的な嘉内の拒絶でした。
大正10年7月18日がその日だと言われています。
そして、それが二人の訣別だと。
それは絶交のニュアンスを含み、その後は形の上だけの交際かのように
されてきたのではないでしょうか。
ある時から、私はこのことに疑問をもってきましたが
この本を読み、さらにそうではないのでは、という思いを強くしました。
このファナティックな信仰、相手の魂の救済という善意があるにせよ、嘉内に対して見せた激しい強要、それに応じなかった嘉内の矜持、賢治は七月から八月の悲嘆の一月のなかで、自分の信仰を他人の魂の内部にまで乱暴にふみ入って強要することへの誤りに、深く深く気づいたのでしょう。これは賢治の生涯と思想の展開をみれば、あきらかだと思います。
賢治は二一年夏の一ヶ月間に、みずからが行った嘉内への人間的非礼を恥じ、信仰を強要することの誤りをさとり、他の信仰や価値観への寛容ということに目ざめていったのでしょう。
…そうだ、そうに違いない。
わかっていたようで、わかってなかった。
かたくなに、自分だけが正しくて他人は間違っていると思い続けていたのだとしたら
こんなに愚かなことはない。
賢治がもし、いつまでも心にわだかまりを持ったまま
嘉内に歩み寄ることをしなかったのだとしたら
そんな人間は、傲慢で、独りよがりでわからずや、ということだ…
賢治は、「こんな事では一人の心をも理解し兼ねると思って」(書簡197)
(おそらく泣きながら?)肉を口にし、深く深く考えたのでしょう。
結局肉食をしたってわからなかったかもしれませんが。
「文壇という脚気みたいなもの」(同)という言葉のうしろには
自分を見つめることをおろそかにし、他人に“形”を強要したことへの
反省がみえるような気がしますが、どうでしょうか。
花巻に帰り、農学校の教師となった賢治が
12月頃に出した嘉内あて書簡199には
「何からかにからすっかり下等になりました。(中略)けれどもそれが人間なのなら私はその下等な人間になりまする。」
とあります。
ここには、地に足の着かない理想ばかり思い描いていたプライド高い人間から、
しっかりと自分をみつめる人間へと変わった賢治がいます。
ありのままの姿で生き、そこから何かをつかんでいくことへの覚悟が
現れているように思えてなりません。
「春になったらいらっしゃいませんか」
…私はもう、あの以前の私ではありませんから…
そしてそれゆえに
その後の二人の交際も元のように
あるいはそれ以上に、深く信頼あるものになっていったに違いないと確信します。
嘉内に拒絶されたあの日から賢治は、
盲信的・狂信的だった法華経を根本から見つめ直し、
外側に向いていたその目を
自分自身の内側へと向ける覚悟と勇気を持ったのではないでしょうか。
その延長上に妹トシとの関わりが絡んでくると思いますが
それはまた次回の記事へ。
※太字は『賢治の北斗七星』(三上満)の抜粋です
「九月が永遠に続けば」沼田まほかる [本]
息抜きに娯楽小説でも、と思ってこの本を手に取ったのですが。
とんでもありませんでした。
「九月が永遠に続けば」沼田まほかる(新潮文庫)
この作品は第5回(2004年) ホラーサスペンス大賞受賞を受賞していて
分類もサスペンスとなっているようですが
ひとつのジャンルには到底おさまりきらないような気がします。
驚くのはこれがデビュー作だということ。
素人の私から見ても、この人の筆力はただものではない感じ。
高校3年生の一人息子が突然行方不明になるところから事件が始まり、
入り組んだ人間関係とそれぞれの中に渦巻くものが絡み合って
物語が進んでいきます。
かなりショッキングな内容が含まれていて
とてもここに書く勇気は私にはありません。
しかし現実にはまず起こりえない事件にもかかわらず
登場人物すべてが妙にリアリティを持って迫ってきます。
冒頭から物語に引き込まれ
まるで自分が主人公佐知子になったように
夜更けにゴミを出しに行ったまま帰らない息子を
必死で探し続けていく。
佐知子だった私が次には息子の文彦の気持ちになり
得体の知れなかった血の繋がらない妹冬子になる。
いつしかそれぞれの人物がくっきりと、
内側も外側も輪郭を持って立っていることに気づきます。
とても現実にはありえないようなことの連続、
だからこその小説なのですが
読み終えてふと、
これらはもしかすると程度の違いはあれ
誰もが抱えているようなことかも知れないと思ったのです。
皆、表面上は何ごともないような顔をして
装って平穏に生活しています。
けれども、悲惨な記憶や耐え難い辛さなどには
蓋をして何もなかったことにして生きているのではないか、と。
平凡で幸せそうにしているけれど、
誰もが胸の奥深くに沈めているものはあるのかもしれません。
自分の中の深い深い闇の部分は正視ができない。
目を向けてしまえばその底なしの闇に引き込まれてしまう。
とても正気では生きていけない。
なかったことにして沈めているものが、
実はその人の人格をつくっているのではないだろうか。
本人が意識しようがしまいが、
立ち振る舞いや仕草のひとつひとつにも現れているのではないか。
そんな風に思えます。
本当は誰もが皆抱えている深い哀しみ。
しかしそうやって生きていくしかない。
そう思うと逆に、何があっても生きて行かなきゃ、とも思います。
この本の最後の2行。
そこにすべてが集約されているような気がします。
重い内容だからこそ、このなんでもない行為の先に救いが見えた気がしたのです。
とんでもありませんでした。
「九月が永遠に続けば」沼田まほかる(新潮文庫)
この作品は第5回(2004年) ホラーサスペンス大賞受賞を受賞していて
分類もサスペンスとなっているようですが
ひとつのジャンルには到底おさまりきらないような気がします。
驚くのはこれがデビュー作だということ。
素人の私から見ても、この人の筆力はただものではない感じ。
高校3年生の一人息子が突然行方不明になるところから事件が始まり、
入り組んだ人間関係とそれぞれの中に渦巻くものが絡み合って
物語が進んでいきます。
かなりショッキングな内容が含まれていて
とてもここに書く勇気は私にはありません。
しかし現実にはまず起こりえない事件にもかかわらず
登場人物すべてが妙にリアリティを持って迫ってきます。
冒頭から物語に引き込まれ
まるで自分が主人公佐知子になったように
夜更けにゴミを出しに行ったまま帰らない息子を
必死で探し続けていく。
佐知子だった私が次には息子の文彦の気持ちになり
得体の知れなかった血の繋がらない妹冬子になる。
いつしかそれぞれの人物がくっきりと、
内側も外側も輪郭を持って立っていることに気づきます。
とても現実にはありえないようなことの連続、
だからこその小説なのですが
読み終えてふと、
これらはもしかすると程度の違いはあれ
誰もが抱えているようなことかも知れないと思ったのです。
皆、表面上は何ごともないような顔をして
装って平穏に生活しています。
けれども、悲惨な記憶や耐え難い辛さなどには
蓋をして何もなかったことにして生きているのではないか、と。
平凡で幸せそうにしているけれど、
誰もが胸の奥深くに沈めているものはあるのかもしれません。
自分の中の深い深い闇の部分は正視ができない。
目を向けてしまえばその底なしの闇に引き込まれてしまう。
とても正気では生きていけない。
なかったことにして沈めているものが、
実はその人の人格をつくっているのではないだろうか。
本人が意識しようがしまいが、
立ち振る舞いや仕草のひとつひとつにも現れているのではないか。
そんな風に思えます。
本当は誰もが皆抱えている深い哀しみ。
しかしそうやって生きていくしかない。
そう思うと逆に、何があっても生きて行かなきゃ、とも思います。
この本の最後の2行。
そこにすべてが集約されているような気がします。
重い内容だからこそ、このなんでもない行為の先に救いが見えた気がしたのです。
『賢治の北斗七星』三上満 [本]
三上満さんがドラマ「金八先生」のモデルになった熱血先生で
韮崎の保阪嘉内のイベントなどにも折に触れお越し下さっていることは
これまでに多少聞いていました。
そんなこともあり
三上満さんの本を読みたいと思いながら
ずるずると後回しになってしまっていました。
読み終えた今、もっと早く詠むべきだったと思います。
この『賢治の北斗七星』(新日本出版社)は、2009年10月に出版された本です。
しかし一ページの最初、「まえがき」の一行目からドキリとしました。
人間は今、大きな分かれ道にさしかかっているようです。世界に広がる暴力と報復の連鎖をどう絶ちきるのかという問題、永続してつないでゆける地球をどう守るのかという問題、生きる喜びと希(のぞ)みを次の世代にどうつないでゆけるのかという問題、どれひとつとっても人類の存亡にかかわる問題です。
そうした根本問題が全面に出てきて、否応なしに私たちに選択を迫っている。それがまさに“現在(いま)”だと思います。
それらの根本問題のどのひとつにも、深くかかわるメッセージを送り続けている先人の一人は、まぎれもなく宮沢賢治です。
3.11以前から、このような危機感をはっきりと持たれて
この本を書かれていたことに驚きました。
賢治との出会いと、学生運動の時代を背景に遠ざかった一時期のこと、
そして2冊の本をきっかけに再び賢治に戻ってきたことなど
三上さんご自身の体験を手始めに、
賢治の作品や行動を通し、“宮澤賢治”とは何者かという難しい問に
この本はわかりやすい言葉で答えてくれています。
少なくとも私にはそうであり、
心の底に抱き続けてきた根本的な疑問やわからなかったことを
目から鱗が落ちるように示してくれた本です。
賢治が生涯をかけ成そうとして結局何も成し得なかったことに関して
心のうちでは肯定していたものの
誰かに「結局何にも成功していない」と問われれば
恐らくきちんとは言い返せなかったことの、
その答えもここにありました。
賢治に対してなんとなく見過ごしていたものや曖昧のままできたことが
明確な言葉となって示される連続に驚きと喜びを感じながら読みました。
たとえばレーニンのトルストイに対する言葉、
「彼の遺産のうちには過去のものとはならなかったもの、未来に属しているものがある」
これを賢治にあてはめれば
いや賢治だけでなくすべてにあてはめれば
視点や考え方が変わってきます。
形にならず成功したものがないから価値がない、とか
いくら努力したからといって結局失敗に終わったなら意味がない、
などと思ってしまいがちですが、
それは目に見えるものにしか見ていないからかもしれません。
賢治が探しつづけた「まことの言葉=真言」とはいったいなんだろう、と
思い続けていた答えも見つけることが出来ました。
そのキーワードはすなわち「未来に属するもの」に違いない。
ジョバンニが、ブドリが、探しに行ったもの。
もちろんカムパネルラも、イーハトーブの住人の誰もがみな
迷いながら間違いながら探していたもの。
ーそうだ、みんな「未来に属するもの」だ。
「他の生に託し繋げていくこと」だ。
童話「双子の星」や「烏の北斗七星」が当時の背景や情勢を投影して
書かれたことなども見過ごしていたことでした。
大烏と蠍の戦いは第一次大戦末期の凄惨な戦い。
烏の北斗七星に出てくる“お腹をすかせて出てきた山烏”は
飢餓で苦しむロシアに対し日本がシベリア出兵を続けたことや
あるいは大戦中同盟国だった中国に対華二十一ケ条要求をつきつけ
激しい抗日闘争が巻き起こっていたことなど。
賢治はしっかりとその時代の事象を練り込み
そこに生きなければならない者の視点を通して
その心情と、時代や情勢を越えた真の祈りを描いていたのだと気づかされ
今更ながら賢治の作品に対する姿勢と
そこに込められたものの大きさ深さに感銘を受けます。
「賢治の思いがいつも帰ってゆくところ、
自分と向き合うことが必要になったとき、必ず行くところ、
それは七ツ森・小岩井・くらかけ山の岩手山麓。」
そうだ、たしかにそうだ。
賢治が追い求めていたものは、もう一人の“自分”ではないか。
「双子の星」の双子は自分ともう一人の自分自身。
賢治と嘉内の関係についても
ぼんやりとそうではないかと思っていたことが
この本を読んで、はっきりと確信が持てるようになりました。
そして妹トシに対する想いについても。
「よだかの星」のよだかはなぜ天に向かって飛び続けたのか。
これらはまた、別々に追って記事にしたいと思います。
三上さんのような優れた教育者が
若い頃に賢治と出会い、迷いながらも賢治を愛し、
賢治に寄り添われながら歩いてこられたことに感動と深い共感を抱きます。
この本のサブタイトルは
「明日へのバトン」です。
地球規模での大きな岐路に立っている私達が
今こそ「まことの言葉」を探し、
「未来に属するもの」をこそ何よりも大切にし
次の生へと繋げて行くことが唯一の道であり、
賢治がすべての作品のなかで主張しているのは
このことにつきるのではないでしょうか。
世界が滅ぶのか再生するのか。
それは今の私達の手にかかっていることは間違いはないと思います。
バトンをなくしたり壊してしまっては取り返しがつかないのです。
韮崎の保阪嘉内のイベントなどにも折に触れお越し下さっていることは
これまでに多少聞いていました。
そんなこともあり
三上満さんの本を読みたいと思いながら
ずるずると後回しになってしまっていました。
読み終えた今、もっと早く詠むべきだったと思います。
この『賢治の北斗七星』(新日本出版社)は、2009年10月に出版された本です。
しかし一ページの最初、「まえがき」の一行目からドキリとしました。
人間は今、大きな分かれ道にさしかかっているようです。世界に広がる暴力と報復の連鎖をどう絶ちきるのかという問題、永続してつないでゆける地球をどう守るのかという問題、生きる喜びと希(のぞ)みを次の世代にどうつないでゆけるのかという問題、どれひとつとっても人類の存亡にかかわる問題です。
そうした根本問題が全面に出てきて、否応なしに私たちに選択を迫っている。それがまさに“現在(いま)”だと思います。
それらの根本問題のどのひとつにも、深くかかわるメッセージを送り続けている先人の一人は、まぎれもなく宮沢賢治です。
3.11以前から、このような危機感をはっきりと持たれて
この本を書かれていたことに驚きました。
賢治との出会いと、学生運動の時代を背景に遠ざかった一時期のこと、
そして2冊の本をきっかけに再び賢治に戻ってきたことなど
三上さんご自身の体験を手始めに、
賢治の作品や行動を通し、“宮澤賢治”とは何者かという難しい問に
この本はわかりやすい言葉で答えてくれています。
少なくとも私にはそうであり、
心の底に抱き続けてきた根本的な疑問やわからなかったことを
目から鱗が落ちるように示してくれた本です。
賢治が生涯をかけ成そうとして結局何も成し得なかったことに関して
心のうちでは肯定していたものの
誰かに「結局何にも成功していない」と問われれば
恐らくきちんとは言い返せなかったことの、
その答えもここにありました。
賢治に対してなんとなく見過ごしていたものや曖昧のままできたことが
明確な言葉となって示される連続に驚きと喜びを感じながら読みました。
たとえばレーニンのトルストイに対する言葉、
「彼の遺産のうちには過去のものとはならなかったもの、未来に属しているものがある」
これを賢治にあてはめれば
いや賢治だけでなくすべてにあてはめれば
視点や考え方が変わってきます。
形にならず成功したものがないから価値がない、とか
いくら努力したからといって結局失敗に終わったなら意味がない、
などと思ってしまいがちですが、
それは目に見えるものにしか見ていないからかもしれません。
賢治が探しつづけた「まことの言葉=真言」とはいったいなんだろう、と
思い続けていた答えも見つけることが出来ました。
そのキーワードはすなわち「未来に属するもの」に違いない。
ジョバンニが、ブドリが、探しに行ったもの。
もちろんカムパネルラも、イーハトーブの住人の誰もがみな
迷いながら間違いながら探していたもの。
ーそうだ、みんな「未来に属するもの」だ。
「他の生に託し繋げていくこと」だ。
童話「双子の星」や「烏の北斗七星」が当時の背景や情勢を投影して
書かれたことなども見過ごしていたことでした。
大烏と蠍の戦いは第一次大戦末期の凄惨な戦い。
烏の北斗七星に出てくる“お腹をすかせて出てきた山烏”は
飢餓で苦しむロシアに対し日本がシベリア出兵を続けたことや
あるいは大戦中同盟国だった中国に対華二十一ケ条要求をつきつけ
激しい抗日闘争が巻き起こっていたことなど。
賢治はしっかりとその時代の事象を練り込み
そこに生きなければならない者の視点を通して
その心情と、時代や情勢を越えた真の祈りを描いていたのだと気づかされ
今更ながら賢治の作品に対する姿勢と
そこに込められたものの大きさ深さに感銘を受けます。
「賢治の思いがいつも帰ってゆくところ、
自分と向き合うことが必要になったとき、必ず行くところ、
それは七ツ森・小岩井・くらかけ山の岩手山麓。」
そうだ、たしかにそうだ。
賢治が追い求めていたものは、もう一人の“自分”ではないか。
「双子の星」の双子は自分ともう一人の自分自身。
賢治と嘉内の関係についても
ぼんやりとそうではないかと思っていたことが
この本を読んで、はっきりと確信が持てるようになりました。
そして妹トシに対する想いについても。
「よだかの星」のよだかはなぜ天に向かって飛び続けたのか。
これらはまた、別々に追って記事にしたいと思います。
三上さんのような優れた教育者が
若い頃に賢治と出会い、迷いながらも賢治を愛し、
賢治に寄り添われながら歩いてこられたことに感動と深い共感を抱きます。
この本のサブタイトルは
「明日へのバトン」です。
地球規模での大きな岐路に立っている私達が
今こそ「まことの言葉」を探し、
「未来に属するもの」をこそ何よりも大切にし
次の生へと繋げて行くことが唯一の道であり、
賢治がすべての作品のなかで主張しているのは
このことにつきるのではないでしょうか。
世界が滅ぶのか再生するのか。
それは今の私達の手にかかっていることは間違いはないと思います。
バトンをなくしたり壊してしまっては取り返しがつかないのです。
「萩尾望都作品集 なのはな」 [本]
収録されている「なのはなー幻想『銀河鉄道の夜』」のタイトルに惹かれて
萩尾望都さんの最新刊「萩尾望都作品集 なのはな」(小学館)を読みました。
「あの日」から、私は胸のザワザワが止まらなくなった。今は、きれいで美しいものは描けないと思った。ずっとザワザワしていた気持ちが、これを描き終わった時、ちょっと静かになりました。(帯より)
3.11以降、誰もが立ち止まり
なにも手に付かなくなってしまいました。
でも、そんな中に一筋の光を見いだしたとき
萩尾さんは描きたいという意欲を取り戻し、
筆を取る決心をなさったのだとあとがきに書かれています。
「なのはな」の見開きいっぱいに描かれた大きな一場面、
夢の中で出会った不思議な少女に
主人公ナホが種撒き機を抱かえて言うセリフ
「あなたは…チェルノブイリにいるあたしだね?」
「あたしはフクシマにいるあなた」
そのページに激しく胸を揺さぶられました。
私は福島の人々を心から自分のこととして
想ったことがあっただろうか。
同じく東北沿岸部の人々を、そう感じたことがあっただろうか。
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
みんなのおのおののなかのすべてですから)
賢治が『春と修羅』の「序」に書いた真の意味が
今万人に問われている気がします。
「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」
ぼんやりとしか理解できなかったことが
原発事故によって、理屈としてはっきり理解できるようになったのは
実に悲しく情けないことだと思いますが
こんなものを造りだしているうちは
人類は破滅に向かっていることは間違いはないのです。
ナホのその後を描いた「なのはなー幻想『銀河鉄道の夜』」は描き下ろしで
賢治の『銀河鉄道の夜』と『ひかりの素足』とのコラボです。
以前私が京都の法然院で鑑賞した中所宜夫さんの能楽らいぶ「光の素足」を
萩尾望都さんも以前ご覧になられ、
作品へのインスピレーションを得られたことが
あとがきに書かれています。
それを読み、あの時の夢幻かつ無限の空間が蘇ってきました。
もう一度あの舞台を拝見したいです。
萩尾望都さんの最新刊「萩尾望都作品集 なのはな」(小学館)を読みました。
「あの日」から、私は胸のザワザワが止まらなくなった。今は、きれいで美しいものは描けないと思った。ずっとザワザワしていた気持ちが、これを描き終わった時、ちょっと静かになりました。(帯より)
3.11以降、誰もが立ち止まり
なにも手に付かなくなってしまいました。
でも、そんな中に一筋の光を見いだしたとき
萩尾さんは描きたいという意欲を取り戻し、
筆を取る決心をなさったのだとあとがきに書かれています。
「なのはな」の見開きいっぱいに描かれた大きな一場面、
夢の中で出会った不思議な少女に
主人公ナホが種撒き機を抱かえて言うセリフ
「あなたは…チェルノブイリにいるあたしだね?」
「あたしはフクシマにいるあなた」
そのページに激しく胸を揺さぶられました。
私は福島の人々を心から自分のこととして
想ったことがあっただろうか。
同じく東北沿岸部の人々を、そう感じたことがあっただろうか。
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
みんなのおのおののなかのすべてですから)
賢治が『春と修羅』の「序」に書いた真の意味が
今万人に問われている気がします。
「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」
ぼんやりとしか理解できなかったことが
原発事故によって、理屈としてはっきり理解できるようになったのは
実に悲しく情けないことだと思いますが
こんなものを造りだしているうちは
人類は破滅に向かっていることは間違いはないのです。
ナホのその後を描いた「なのはなー幻想『銀河鉄道の夜』」は描き下ろしで
賢治の『銀河鉄道の夜』と『ひかりの素足』とのコラボです。
以前私が京都の法然院で鑑賞した中所宜夫さんの能楽らいぶ「光の素足」を
萩尾望都さんも以前ご覧になられ、
作品へのインスピレーションを得られたことが
あとがきに書かれています。
それを読み、あの時の夢幻かつ無限の空間が蘇ってきました。
もう一度あの舞台を拝見したいです。
震災と嘉内 [思うこと]
震災から一年。
3.11にと書き始めた記事なのに
もう10日以上経ってしまいました。
この一年、ボランティアや自衛隊の方々の
被災地での活躍を見聞きするたび頭に浮かんだことがあります。
大正12年9月、関東大震災の折に
保阪嘉内がとった行動です。
保阪庸夫さんの文章に
その時の様子を書かれた部分があります。
まだ活字になっていないものですが
了承を頂くことができたので掲載します。
『畧説 賢治と嘉内(一)』(抜粋)
大正一二年九月一日、午、大音響と不思議な晦冥がひろがり四囲の山々がどよめいた。関東大震災の瞬間である。嘉内はとっさに、傍に居た末妹、静枝を抱き、中庭へと飛び出す。家も木々も空気も川水も、耳にきこえぬ高い響きを放ってふるえている。藍青のジグラットのように南天にそびえる富士が鈍色めき、東へ東へと流れるはずの千切れ雲が、かなりの速度で西へ駆ける。雀、椋鳥、山鳩にまじって何羽もの鳥の群が北へ西へと翔る。普段はみなれない大型の白、茶、黒の鳥の群も列をなして、騒然たる天、懐の静枝もキョトンとした目つきで空を眺めていた。
後の妻、佐藤さかゑは、柱時計を見上げながら、背なの末弟に子守唄をうたっていた。韮崎より東京に近い東山梨群岩手村の生家である。柱時計が赤ん坊の頭をかすめて落ち、大屋根、中屋根、小屋根がうめききしんだ。確かに柱も壁も泣くのがきこえた。冬のように冷たい山颪しが裏山から寄せ、居間裏の小池の水面が斜めになったままだった。
午後になって、東京横浜を中心とする関東地震の噂さが国なか地方にもとどいた。折から三妹のきのえは東京青山に居る。甲府の女学校を了えると、教師資格を得るために実践女学園に進んだのだ。
嘉内は急遽、軍装をととのえて谷村町へ向かった。大月など郡内地方は、かなりの被害で人死にも出た、という風聞が入った。谷村は、つい先頃まで桂川電気で地質町瀬の根 據地としていた所。知人も多い。特に定宿「焙烙屋」の主人は退役陸軍軍曹で、小さな運送屋も兼ね、駄馬二,三匹を飼っているので嘉内輜重兵とは話も合う。
中央線は運行が乱れ、やがて大月以東は一時運休となった。顔や姿のすすけた焼けだされや、あちこち包帯したケガ人が三々五々、避難してくる。もう晩夏とはいえ、日の落ちた頃である。惨怚たる人々はデマや臆説を携えて来た。「主義者が暴動をおこした」「半島出身者が焼きうちや掠奪をして回っている」といったたぐいの噂だ。
嘉内と焙烙屋は荷馬車索きを中心に十名余の若者を集めて「関東救援隊」を組織する。手当り次第に勢揃いしたのは翌二日の夕方だ。とにかく笹子も小仏も越えて、まず八王子へ。三台の駄車には手綱取り一人、後番二人、先頭と後尾には、替え馬に乗った予備少尉殿と退役軍人殿。他に交代要員三,四名で計十五名ほどの仲間となった。後尾車から荷をほどいて、空になった車馬は大月へ戻る。甲州街道は高井戸あたりで荷がつきる。嘉内は残物を自分で用意して来たものと一緒に背負子につけて一荷とし、片手に杖のいでたちで焙烙屋と馬たちに別れた。
本当に徒歩となったのは此処からである。北沢から駒場をすぎて渋谷、青山と、輜重大隊時代におなじみの道だ。焼け跡。くすぶっている半壊、全壊の家。呆然と座り込んでいる人の傍らでは、何かを懸命に探す者。ピクリとも動かぬ老人。泣いている女。子供が何かをしきりに食べているが、煤けた頬と鼻の下に四本の白条がクッキリと目立つ。小さなキャラメルの箱を渡しながら、よく見ると涙と鼻水の跡だった。皆にいろいろ分けてやりたいが、妹のところへ一刻でも早くつきたい。嘉内は義侠心と家族愛との板挟みである。まるで歌舞伎の一場面だな、などと無理やり自分の感情を茶化して道を急いだ。見おぼえのある実践学園も大分荒れている。もう少しで、この辛い道行も一先ず終わる。もう九月三日の夕方である。
宿の面会室に入ると蒼白い顔のきのえが現れる。兄と妹は自然と抱き合う。細い肩がふるえて、声をころして泣くと、兄もつい涙ぐむ。「兄さんの身体は暖かくて広くて、お母さんに抱っこしているようだった。」「兄さんの汗も涙も甘い味がした。」「お土産の粉ミルクや練りミルクは、ずっと後まで一日にひとなめずつした。なくなるのが惜しかった。」「いろいろの品物をくれたが、新品の下着は、どこで用意したのか。最新流行のワンピースの洋服には一番おどろいた。裾が少し短めなのが恥かしかったけれど。」長い年月の間に聞き出した叔母の追想である。
物資を集めるのに苦労したことや、
少しずつ配りながら行ったら皆さん涙を流して喜んだことなども
保阪庸夫さんが教えてくれました。
肉親の身を案じそのもとへと急ぐとき、
私なら取るものも取りあえず
家族のことしか頭にないと思います。
嘉内の機転と行動力。
万分の一でも見習いたいと思いますが
震災後一年経ってもまだ
私は何も出来ないでいます。
3.11にと書き始めた記事なのに
もう10日以上経ってしまいました。
この一年、ボランティアや自衛隊の方々の
被災地での活躍を見聞きするたび頭に浮かんだことがあります。
大正12年9月、関東大震災の折に
保阪嘉内がとった行動です。
保阪庸夫さんの文章に
その時の様子を書かれた部分があります。
まだ活字になっていないものですが
了承を頂くことができたので掲載します。
『畧説 賢治と嘉内(一)』(抜粋)
大正一二年九月一日、午、大音響と不思議な晦冥がひろがり四囲の山々がどよめいた。関東大震災の瞬間である。嘉内はとっさに、傍に居た末妹、静枝を抱き、中庭へと飛び出す。家も木々も空気も川水も、耳にきこえぬ高い響きを放ってふるえている。藍青のジグラットのように南天にそびえる富士が鈍色めき、東へ東へと流れるはずの千切れ雲が、かなりの速度で西へ駆ける。雀、椋鳥、山鳩にまじって何羽もの鳥の群が北へ西へと翔る。普段はみなれない大型の白、茶、黒の鳥の群も列をなして、騒然たる天、懐の静枝もキョトンとした目つきで空を眺めていた。
後の妻、佐藤さかゑは、柱時計を見上げながら、背なの末弟に子守唄をうたっていた。韮崎より東京に近い東山梨群岩手村の生家である。柱時計が赤ん坊の頭をかすめて落ち、大屋根、中屋根、小屋根がうめききしんだ。確かに柱も壁も泣くのがきこえた。冬のように冷たい山颪しが裏山から寄せ、居間裏の小池の水面が斜めになったままだった。
午後になって、東京横浜を中心とする関東地震の噂さが国なか地方にもとどいた。折から三妹のきのえは東京青山に居る。甲府の女学校を了えると、教師資格を得るために実践女学園に進んだのだ。
嘉内は急遽、軍装をととのえて谷村町へ向かった。大月など郡内地方は、かなりの被害で人死にも出た、という風聞が入った。谷村は、つい先頃まで桂川電気で地質町瀬の根 據地としていた所。知人も多い。特に定宿「焙烙屋」の主人は退役陸軍軍曹で、小さな運送屋も兼ね、駄馬二,三匹を飼っているので嘉内輜重兵とは話も合う。
中央線は運行が乱れ、やがて大月以東は一時運休となった。顔や姿のすすけた焼けだされや、あちこち包帯したケガ人が三々五々、避難してくる。もう晩夏とはいえ、日の落ちた頃である。惨怚たる人々はデマや臆説を携えて来た。「主義者が暴動をおこした」「半島出身者が焼きうちや掠奪をして回っている」といったたぐいの噂だ。
嘉内と焙烙屋は荷馬車索きを中心に十名余の若者を集めて「関東救援隊」を組織する。手当り次第に勢揃いしたのは翌二日の夕方だ。とにかく笹子も小仏も越えて、まず八王子へ。三台の駄車には手綱取り一人、後番二人、先頭と後尾には、替え馬に乗った予備少尉殿と退役軍人殿。他に交代要員三,四名で計十五名ほどの仲間となった。後尾車から荷をほどいて、空になった車馬は大月へ戻る。甲州街道は高井戸あたりで荷がつきる。嘉内は残物を自分で用意して来たものと一緒に背負子につけて一荷とし、片手に杖のいでたちで焙烙屋と馬たちに別れた。
本当に徒歩となったのは此処からである。北沢から駒場をすぎて渋谷、青山と、輜重大隊時代におなじみの道だ。焼け跡。くすぶっている半壊、全壊の家。呆然と座り込んでいる人の傍らでは、何かを懸命に探す者。ピクリとも動かぬ老人。泣いている女。子供が何かをしきりに食べているが、煤けた頬と鼻の下に四本の白条がクッキリと目立つ。小さなキャラメルの箱を渡しながら、よく見ると涙と鼻水の跡だった。皆にいろいろ分けてやりたいが、妹のところへ一刻でも早くつきたい。嘉内は義侠心と家族愛との板挟みである。まるで歌舞伎の一場面だな、などと無理やり自分の感情を茶化して道を急いだ。見おぼえのある実践学園も大分荒れている。もう少しで、この辛い道行も一先ず終わる。もう九月三日の夕方である。
宿の面会室に入ると蒼白い顔のきのえが現れる。兄と妹は自然と抱き合う。細い肩がふるえて、声をころして泣くと、兄もつい涙ぐむ。「兄さんの身体は暖かくて広くて、お母さんに抱っこしているようだった。」「兄さんの汗も涙も甘い味がした。」「お土産の粉ミルクや練りミルクは、ずっと後まで一日にひとなめずつした。なくなるのが惜しかった。」「いろいろの品物をくれたが、新品の下着は、どこで用意したのか。最新流行のワンピースの洋服には一番おどろいた。裾が少し短めなのが恥かしかったけれど。」長い年月の間に聞き出した叔母の追想である。
物資を集めるのに苦労したことや、
少しずつ配りながら行ったら皆さん涙を流して喜んだことなども
保阪庸夫さんが教えてくれました。
肉親の身を案じそのもとへと急ぐとき、
私なら取るものも取りあえず
家族のことしか頭にないと思います。
嘉内の機転と行動力。
万分の一でも見習いたいと思いますが
震災後一年経ってもまだ
私は何も出来ないでいます。
『第3回イーハトーブ・プロジェクトin京都』に行ってきた! [催し物]
賢治は美声の持ち主だった、と何かで読んだことがあります。
「これはまさに賢治の声ではないか…」
朗々と会場に響き渡る竹崎利信さんの声に
幾度となくそう思ってしまいました。
プログラム最初の『私家版宮澤賢治幻想旅行記・抄』は
客席の後から竹崎さんが現れて始まりました。
遺書や『注文の多い料理店・序』、『春と修羅・序』、
バルコクバララゲ♪の応援歌、
なぜか涙が自然に流れてくるのをとめられません。
詩『丁丁丁丁丁』『眼にて云ふ』『そしてわたくしはまもなく死ぬのであろうか』
そうして呻くように「ナリタイ…ナリタイ…ナリタイ…」と。
これまでいろんな方の『雨ニモマケズ』の朗読を聴きましたが、
これほど賢治の魂と重なったものはありませんでした。
そうだ、賢治はこんな気持ちで小さな手帳に書いたに違いない…と。
「ナァーンモデギナガッタ、ダーレモタスケラレナガッタ。
ソウイウモノニワタシハナリテェ?
インヤ、オレハマサニ、バカノメチャクチャノデキソコネー
・・・オレハタダノ、デクノボーダ。」
そうだ。
賢治はデクノボーだ。
「賢治が遠くへ行った?
いや、あの人から遠ざかっていたのは自分のほうではなかったのか。」
竹崎さんの賢治への旅が
私自身の旅と重なります。
賢治から来るはずのない手紙が来て。
ジョバンニの手の中の切符。
「たとえ生まれ変わり、死にかわっても―」
賢治が残してくれた切符に書かれていた言葉は
「ここより始まる」
私は震えるほど感動しました。
ああ、いつだって、どこだってそうだ。
「ここより始まる」!
私は私の切符をちゃんと握っているのだ。
『なめとこ山の熊』は竹崎さんの語りと友枝良平さんの揚琴。
お二人の息のあった舞台。
揚琴というのはこんな楽器→☆
竹崎さんが“天上の音”と賞賛されるように
不思議な美しい音色がして
深い森の木々に風が渡ってゆく音や
母熊子熊に降り注ぐ月の光の粉が目の前に見えるようでした。
そして小十郎が死んだ後には、
雪のカーテンがやってくるのが見えた…ような気がしました。
山の上で環になって平伏した熊たちの真ん中に
半分座ったように置かれた小十郎の死骸。
ラストシーンの情景を揚琴の音色のなかで浮かべ
賢治の描いたものの深さを思いました。
「たとえ生まれ変わり、死にかわっても―」
という先の言葉がよみがえります。
ともに生きて、ともに死んでいくこと。
私達はひとりだけれど、ひとりじゃない。
小十郎は熊であり、熊はまた小十郎である。
そしてかれらはそのことを知ってる。
ともに生きともに死ぬ、そのことを知っている。
現代社会の不幸は
人間がそのことを忘れ
世界とともに生きることを忘れたからではないのかなぁ。
そんなこともぼんやり感じていました。
賢治が描きたかったものに
なんとなくまた一歩近づけたような気がします。
あの会場に広がっていたのは
なめとこ山の景色。
そこにいたのは小十郎や熊の魂。
賢治はやっぱり、ちゃんと会場のどこかにいて見守っていた、
そんな気がしてなりません。
二つのプログラムの間にあった主催者・浜垣誠司さんのミニ講演は
それらにつながる内容でした。
賢治の感性や
「私」や「世界」というものを賢治がどう感じていたか、を
図解してわかりやすく話してくださいました。
ちょうど今読んでいる本には
賢治の世界のとらえ方や、
賢治は何をもとめて旅していたかを探るテーマで連載されていて
『私家版宮澤賢治幻想旅行記・抄』や浜垣さんのお話にも通じていて
不思議な符合を感じています。
第2回『能楽らいぶ 光の素足』もそうでしたが
今回も、心、というよりはしっかりと“魂”に刻まれたと感じます。
関係者のみなさま、お疲れ様でした。
そして素晴らしいものを有り難うございました。
またぜひ伺います。
「これはまさに賢治の声ではないか…」
朗々と会場に響き渡る竹崎利信さんの声に
幾度となくそう思ってしまいました。
プログラム最初の『私家版宮澤賢治幻想旅行記・抄』は
客席の後から竹崎さんが現れて始まりました。
遺書や『注文の多い料理店・序』、『春と修羅・序』、
バルコクバララゲ♪の応援歌、
なぜか涙が自然に流れてくるのをとめられません。
詩『丁丁丁丁丁』『眼にて云ふ』『そしてわたくしはまもなく死ぬのであろうか』
そうして呻くように「ナリタイ…ナリタイ…ナリタイ…」と。
これまでいろんな方の『雨ニモマケズ』の朗読を聴きましたが、
これほど賢治の魂と重なったものはありませんでした。
そうだ、賢治はこんな気持ちで小さな手帳に書いたに違いない…と。
「ナァーンモデギナガッタ、ダーレモタスケラレナガッタ。
ソウイウモノニワタシハナリテェ?
インヤ、オレハマサニ、バカノメチャクチャノデキソコネー
・・・オレハタダノ、デクノボーダ。」
そうだ。
賢治はデクノボーだ。
「賢治が遠くへ行った?
いや、あの人から遠ざかっていたのは自分のほうではなかったのか。」
竹崎さんの賢治への旅が
私自身の旅と重なります。
賢治から来るはずのない手紙が来て。
ジョバンニの手の中の切符。
「たとえ生まれ変わり、死にかわっても―」
賢治が残してくれた切符に書かれていた言葉は
「ここより始まる」
私は震えるほど感動しました。
ああ、いつだって、どこだってそうだ。
「ここより始まる」!
私は私の切符をちゃんと握っているのだ。
『なめとこ山の熊』は竹崎さんの語りと友枝良平さんの揚琴。
お二人の息のあった舞台。
揚琴というのはこんな楽器→☆
竹崎さんが“天上の音”と賞賛されるように
不思議な美しい音色がして
深い森の木々に風が渡ってゆく音や
母熊子熊に降り注ぐ月の光の粉が目の前に見えるようでした。
そして小十郎が死んだ後には、
雪のカーテンがやってくるのが見えた…ような気がしました。
山の上で環になって平伏した熊たちの真ん中に
半分座ったように置かれた小十郎の死骸。
ラストシーンの情景を揚琴の音色のなかで浮かべ
賢治の描いたものの深さを思いました。
「たとえ生まれ変わり、死にかわっても―」
という先の言葉がよみがえります。
ともに生きて、ともに死んでいくこと。
私達はひとりだけれど、ひとりじゃない。
小十郎は熊であり、熊はまた小十郎である。
そしてかれらはそのことを知ってる。
ともに生きともに死ぬ、そのことを知っている。
現代社会の不幸は
人間がそのことを忘れ
世界とともに生きることを忘れたからではないのかなぁ。
そんなこともぼんやり感じていました。
賢治が描きたかったものに
なんとなくまた一歩近づけたような気がします。
あの会場に広がっていたのは
なめとこ山の景色。
そこにいたのは小十郎や熊の魂。
賢治はやっぱり、ちゃんと会場のどこかにいて見守っていた、
そんな気がしてなりません。
二つのプログラムの間にあった主催者・浜垣誠司さんのミニ講演は
それらにつながる内容でした。
賢治の感性や
「私」や「世界」というものを賢治がどう感じていたか、を
図解してわかりやすく話してくださいました。
ちょうど今読んでいる本には
賢治の世界のとらえ方や、
賢治は何をもとめて旅していたかを探るテーマで連載されていて
『私家版宮澤賢治幻想旅行記・抄』や浜垣さんのお話にも通じていて
不思議な符合を感じています。
第2回『能楽らいぶ 光の素足』もそうでしたが
今回も、心、というよりはしっかりと“魂”に刻まれたと感じます。
関係者のみなさま、お疲れ様でした。
そして素晴らしいものを有り難うございました。
またぜひ伺います。
「第3回イーハトーブ・プロジェクトin京都」 [催し物]
今回も催しのお知らせです。
もう少し早いうちにアップするつもりでしたが
息子の受験や何かに気を取られ
うっかりしていて直前になってしまいました。
「第3回イーハトーブ・プロジェクトin京都」
主催者の浜垣さんのページはこちら→☆
日時: 2012年3月4日(日) 午後2時開演(午後1時半会場)
場所: 京都府庁旧本館正庁
内容:
1. 「私家版宮澤賢治幻想旅行記・抄」 構成・出演 竹崎利信
2. 「宮沢賢治 ~人と思想(その1)~」 小講演 浜垣誠司
3. 「なめとこ山の熊」 かたり 竹崎利信 & 音楽 友枝良平
参加費:2000円(義援金とします)
参加のお申し込みは 075-256-3759(アートステージ567)まで(12時-18時、月曜休)
第2回の能楽らいぶ『光の素足』に続いて
今回もとても楽しみです!
私の場合、息子の受験やその準備で参加できるかどうか不安でしたが
この日は前期試験の後であり、またその合格発表の前ということで
結果的にここでなければムリなところでした。
ほんとに良かった~。
もう少し早いうちにアップするつもりでしたが
息子の受験や何かに気を取られ
うっかりしていて直前になってしまいました。
「第3回イーハトーブ・プロジェクトin京都」
主催者の浜垣さんのページはこちら→☆
日時: 2012年3月4日(日) 午後2時開演(午後1時半会場)
場所: 京都府庁旧本館正庁
内容:
1. 「私家版宮澤賢治幻想旅行記・抄」 構成・出演 竹崎利信
2. 「宮沢賢治 ~人と思想(その1)~」 小講演 浜垣誠司
3. 「なめとこ山の熊」 かたり 竹崎利信 & 音楽 友枝良平
参加費:2000円(義援金とします)
参加のお申し込みは 075-256-3759(アートステージ567)まで(12時-18時、月曜休)
第2回の能楽らいぶ『光の素足』に続いて
今回もとても楽しみです!
私の場合、息子の受験やその準備で参加できるかどうか不安でしたが
この日は前期試験の後であり、またその合格発表の前ということで
結果的にここでなければムリなところでした。
ほんとに良かった~。
第36回花巻市民劇場『豊沢ダムの恵み 緑の平和郷』 [催し物]
このところ記事が書けていませんが
さぼっているわけではないこともありません………?
いえ、いろいろあって落ち着かないということもありますが。
さて、情報をいただいたのでお知らせします。
第36回花巻市民劇場『豊沢ダムの恵み 緑の平和郷』
HPはこちら→「はなまき市民劇場」
作・演出/星鴉 宮
☆公演日時/平成24年2月25日(土)午後6時30分開演
26日(日)午後2時開演
☆ 入場料:[前売り]大人1,000円、小中高生500円
[当日券]大人1,300円、小中高生700円
市民劇場入場券プレイガイドで発売中!…だそうです。
豊沢郷といえば
賢治作品『なめとこ山の熊』の主人公・淵沢小十郎のモデルとなった
松橋親子の住んでいた村。
今は豊沢ダムの底に沈んでいますが
この劇はまさにそのダムが造られる経緯をもとに創られています。
私も近ければ観に行きたいところです。
さぼっているわけではないこともありません………?
いえ、いろいろあって落ち着かないということもありますが。
さて、情報をいただいたのでお知らせします。
第36回花巻市民劇場『豊沢ダムの恵み 緑の平和郷』
HPはこちら→「はなまき市民劇場」
作・演出/星鴉 宮
☆公演日時/平成24年2月25日(土)午後6時30分開演
26日(日)午後2時開演
☆ 入場料:[前売り]大人1,000円、小中高生500円
[当日券]大人1,300円、小中高生700円
市民劇場入場券プレイガイドで発売中!…だそうです。
豊沢郷といえば
賢治作品『なめとこ山の熊』の主人公・淵沢小十郎のモデルとなった
松橋親子の住んでいた村。
今は豊沢ダムの底に沈んでいますが
この劇はまさにそのダムが造られる経緯をもとに創られています。
私も近ければ観に行きたいところです。
『苦斗じだい』刈屋隼人 [本]
『苦斗じだい』という本を読みました。
→こちら
著者の刈屋隼人というのは、宮澤賢治の末妹クニさんのご主人主計さんの末弟。
彼が昭和19年、戦地のニューギニア・ビアク島で書き綴った日誌です。
米軍の手に渡っていたこの日誌が、不思議な経緯で、
クニさんのご子息で賢治と隼人の甥である宮沢信夫さんのもとに戻ったのは
1998(平成10)年のことだそうです。
ビアク島守備隊は昭和19年8月にほぼ全滅、
26歳の刈屋隼人中尉は部下7名とともに生き延びていました。
米軍の目を盗んで食料を探し、飢えと病に苦しみながらも
友軍を待って待って待ち続けていました。
賢治の作品に「飢餓陣営」というのがあります。
なかなか来ないバナナン大将を待って
飢えに苦しむ隊員たちのコミックオペレッタです。
十数年後、妹の親族が同じような状況におかれることになるなどとは
賢治は想像すらしていなかったことでしょう。
隼人にとってのバナナン大将は、空からやってくる友軍だったでしょう。
日本は負けるはずはないのだと信じ、
生き延びてこそ憎い米兵をやっつけるのだと信じていた。
それが使命だと。
そうとはいえ、この日誌は決して激しいものではなく
隼人の資質、ほんとうは優しく詩情豊かで
戦争さえなかったら、文学を志していたかもしれない
繊細な心を持った青年だったことが判ります。
過酷な状況で、自らを励ますように
敵をやっつけるぞ、
友軍は来るのだ、と何度も何度も書き綴っているのです。
「生きて行かふよ 希望に満ちて 希望こそは 人生の指針だ
希望を失ふと云ふことは 生を捨てることだ」
潜むジャングルの中で小さな虫やトカゲに目を向け
精一杯に生きている姿に人間もまた同じ、と。
ある時は戦火に散った友たちを懐かしみ悲しみを綴る。
彼の最期がどんなものだったのかは誰にもわかりませんが
日誌が米軍の手に渡った、ということから想像がつきます。
前回読んだ『群青に沈め』もそうだったけれど
戦争の全体の姿や状況は最中にある者たちにはわからない。
目前にある現実だけがわかっていることのすべて。
しかしその「戦争」のほんの一部でしかない個々の体験や現実が
かえって戦争というものの姿をリアルにあぶり出し伝えるのではないでしょうか。
遠い親戚である賢治を慕う、
やわらかな美しい心を持ったひとりの青年の手にさえ
銃を持たせてしまう戦争。
今の日本に戦争はないけれど
同じように、あるいはもっと恐ろしいものに
巻き込まれているのではないかという不安。
私達が本当に戦わなければならないものは何だろうか。
ビアク島には今もまだ多数の遺骨、遺品が残されているといいます。
この日誌を今、私達が読むことができるという不思議。
賢治は生前、隼人に会ったことはあったでしょうか。
いずれにしても、義理の弟の為に
この日誌に光を当てようと
賢治が何か作用したのだという気がしてなりません。
→こちら
著者の刈屋隼人というのは、宮澤賢治の末妹クニさんのご主人主計さんの末弟。
彼が昭和19年、戦地のニューギニア・ビアク島で書き綴った日誌です。
米軍の手に渡っていたこの日誌が、不思議な経緯で、
クニさんのご子息で賢治と隼人の甥である宮沢信夫さんのもとに戻ったのは
1998(平成10)年のことだそうです。
ビアク島守備隊は昭和19年8月にほぼ全滅、
26歳の刈屋隼人中尉は部下7名とともに生き延びていました。
米軍の目を盗んで食料を探し、飢えと病に苦しみながらも
友軍を待って待って待ち続けていました。
賢治の作品に「飢餓陣営」というのがあります。
なかなか来ないバナナン大将を待って
飢えに苦しむ隊員たちのコミックオペレッタです。
十数年後、妹の親族が同じような状況におかれることになるなどとは
賢治は想像すらしていなかったことでしょう。
隼人にとってのバナナン大将は、空からやってくる友軍だったでしょう。
日本は負けるはずはないのだと信じ、
生き延びてこそ憎い米兵をやっつけるのだと信じていた。
それが使命だと。
そうとはいえ、この日誌は決して激しいものではなく
隼人の資質、ほんとうは優しく詩情豊かで
戦争さえなかったら、文学を志していたかもしれない
繊細な心を持った青年だったことが判ります。
過酷な状況で、自らを励ますように
敵をやっつけるぞ、
友軍は来るのだ、と何度も何度も書き綴っているのです。
「生きて行かふよ 希望に満ちて 希望こそは 人生の指針だ
希望を失ふと云ふことは 生を捨てることだ」
潜むジャングルの中で小さな虫やトカゲに目を向け
精一杯に生きている姿に人間もまた同じ、と。
ある時は戦火に散った友たちを懐かしみ悲しみを綴る。
彼の最期がどんなものだったのかは誰にもわかりませんが
日誌が米軍の手に渡った、ということから想像がつきます。
前回読んだ『群青に沈め』もそうだったけれど
戦争の全体の姿や状況は最中にある者たちにはわからない。
目前にある現実だけがわかっていることのすべて。
しかしその「戦争」のほんの一部でしかない個々の体験や現実が
かえって戦争というものの姿をリアルにあぶり出し伝えるのではないでしょうか。
遠い親戚である賢治を慕う、
やわらかな美しい心を持ったひとりの青年の手にさえ
銃を持たせてしまう戦争。
今の日本に戦争はないけれど
同じように、あるいはもっと恐ろしいものに
巻き込まれているのではないかという不安。
私達が本当に戦わなければならないものは何だろうか。
ビアク島には今もまだ多数の遺骨、遺品が残されているといいます。
この日誌を今、私達が読むことができるという不思議。
賢治は生前、隼人に会ったことはあったでしょうか。
いずれにしても、義理の弟の為に
この日誌に光を当てようと
賢治が何か作用したのだという気がしてなりません。
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