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「インドラの網」(その3) [童話]

旧ブログで以前「インドラの網(その2)」を書いたのですが、
今読んでいる本、見田宗介・著『宮沢賢治 存在の祭りの中へ』(岩波書店・同時代ライブラリー)にもこの「インドラの網」のことが出てきます。
序章 銀河と鉄道の「二 標本と模型ー時空についてー」の終わりの部分です。

インドらの網(因陀羅網)は、帝釈天(インドラ)の宮殿をおおうといわれる網である。この網の無数の結び目のひとつひとつに宝の珠があり、これらの珠のひとつひとつが他のすべての珠を表面に映し、そこに映っている珠のひとつひとつがまたそれぞれに、ほかのすべての珠とそれらの表面に映っているすべての珠とを明らかに映す。このようにしてすべての珠は、重々無尽に相映している。  それは空間のかたちとしては、それぞれの〈場所〉がずべての世界を相互に包摂し映発し合う様式の模型でもあり、それは時間のかたちとしては、それぞれの〈時〉がすべての過去と未来とを、つまり永遠をその内に包む様式の模型でもあり、そして主体のかたちとしては、それぞれの〈私〉がすべての他者たちを、相互に包摂し映発し合う、そのような世界のあり方の模型でもある。


つまり、網目をそれぞれの〈場所〉としても見立てることができるし
〈時間〉として見立てることもできるし
〈人〉として見ることができる、ということでしょうか。

網目のひとつの「珠」が他のすべての「珠」を映し出している…。
なるほど、「私」という珠は他の人々の珠を感じ影響をうけている。

この美しく世界にめぐらされた無尽の「網」を思い浮かべた時
この図は最近どこかで見たぞ、と思いました。

プラネタリウム版『銀河鉄道の夜』です。

賢治は「銀河鉄道の夜」で星を三角標で表していますが
それを実際の星の位置に置き、線で結んだ場面が出てきます。
それがどんどん増えて立体的に膨らんで行くのす。
そして実は現在このように星の位置を表す取り組みがなされているとか。

私たちも星も
この宇宙自体がそのまま「インドラの網」なんだと思い
先述の部分を読んだ時、その壮大な感覚に酔いしれ感動したのですが
それはやはり、人間はひとりだけでは生きておらず
万物の微妙で美しい均衡のもとに成り立っている世界なのだと感じました。

自分、あるいは人間のことしか考え得ないのは
なによりも愚かなことだという気がします。

他のあらゆる生命は、何も学ばず考えないでも
ありのままでそれを知っている(均衡を生きている)のに
人間は禁断の果実と引き替えにそれを忘れてしまった…。
必要以上に求めるのは人間だけです。


日常の中でついつい「私は私は」と自分のことばかり考えてしまいますが
少し私を離れて後方から全体を見る眼というのを
持ちたいたいなぁと思います。

賢治はおそらくそういう眼を持っていたのですね。
ただ、一方、それが賢治の苦しみのひとつの
大きな原因だったのかもしれませんが…。
その話はまたいづれ。

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