So-net無料ブログ作成

書簡102aはいつ書かれたか [妄想]

宮澤賢治の詩の世界」(浜垣誠司さん)の
10月23日の記事「賢治と嘉内の東京」を拝見したをがきっかけに
書簡166に書かれている賢治が嘉内と「東京デオ目ニカゝッタコロ」はいつか、ということと、
それに関連して書簡102aが書かれた時期について、
ツイッターで少しつぶやいたのですが
この機会にかねてから私が考えていたことをまとめてみようと思います。

結論から書くと
賢治と嘉内が東京で会ったのは大正8年1月初め、
書簡102aはその直後に書かれたのではないか、というのが私の推測です。


書簡から読み取る賢治と嘉内の心情の流れをみてみます。

大正7年3月、突然の退学処分で失意の底にある嘉内に、
賢治は赤い経巻=「漢和対照妙法蓮華経」を送って励まします。
6月に嘉内の母が亡くなると、賢治の法華経熱がさらにヒートアップしていくのですが
賢治の想いとは反対に、書簡78(7月17日)あたりから、少しぎくしゃくしていきます。
 「あなたは何でも、何かの型に入らなければ御満足ができないのですか。又は何でも高く叫んで居なければ不足なのですか。…」

書簡83(7月25日)「私がさっぱりあなたの御心持を取り違ひてゐるとか云ふことも本統でせう…」

この頃嘉内は明治大学に籍をおいて再受験に向け勉強していました。
一方賢治は、地質調査の為にあちこち山を歩いています。
書簡83a(8月)「学校は面白うございますか。私の様に落ちぶれる手筈ならば農学校等は入らなくともよかったのでせうな。」

 (この間手紙を出していないのは、早池峯山付近の地質調査に出ていたためでしょうか。
書簡88(9月27日)で帰ってきたことを報告しています。
書簡89(10月1日)「おちぶれるも結構に思ひます…」青人の流れ幻想。

勉学を断念し故郷に帰り農業することを決心した嘉内。
賢治には不満だったのでしょう。
書簡93(12月初め)「この度は又御決心の程誠に羨ましく、御祝申し上げます」
 
なんとも皮肉な言葉。そして賢治は、東京に出たいが今は無理だ、会いたくてもそちらに行くことはできない、と綴ります。
書簡94(12月10日前後)「あなたはあなたの信ずるところをおやりになったらいかがですか…」

と書きながらその後に二人きりで登った岩手山の思い出をつづるのは、嘉内にあの時の「誓い」を忘れたのか、とでもいうようです。
嘉内は怒ったのでしょうか。
書簡95(12月16日)では「あなたに求めるものはあなたの私を怒らないことです」

と書き、アンデルセンの短歌を6首。孤独な白鳥を歌うのです。
ところがここで日本女子大学にいた妹トシが入院。
12月27日、賢治と母が看病のため上京します。
嘉内に手紙を出したのは大晦日。 
書簡102(12月31日)「あなたとお目にかゝる機会を得ませうかどうですか 若し御序でもあれば日時と場所を御示しください‥」
 
嘉内はさっそく飛んできたことでしょう。岩手から東京を思えば山梨から東京は近い。
 どこでいつ会ったか会ったかはわかりませんが、もしかしたら帝国図書館で待ち合わせでもしたでしょうか。
 二人はここで激突したに違いありません。
手紙よりもなお、直接会って話せばお互い興奮もする。
口論の末、解り合えないまま分かれた二人。
賢治は帰ってから、泣きながら例の書簡102aを書いて嘉内に送ったのではないでしょうか。

 書簡102aを書いたのがこの再会の後だと思う理由は
 ①会うまでの書簡は、すねたり落ち込んだりしているが、激しく嘉内に迫るものではないように感じる。よって102以前に差し込まれる必然性が薄い気がする。

 ②書かれている用紙は書簡75と同じでノートをちぎったものだが、ノートは持ち歩いても不思議ではない。上京の荷造りする時、愛用のノートをその中に放り込んでもおかしくはない。

 ③文中に「既に先日言へば言ふ程間違って御互いに考へました。」とある。賢治はそれ以前は書簡のでのやりとりは「云ふ」という字を使っている。直接会って会話したから「言う」を使ったのではないか。

 ④文中「しばらくは境遇の為にはなれる日があっても‥」というのは、嘉内が故郷に帰ってしまっても、法華経だけは自分と一緒に信じて行って欲しいというただ一つの願いである。賢治にとっては、法華経の道に進むことが一緒に行くことに他ならなかったのではないか。

その後、賢治が嘉内に手紙を出したのは4月になってからですが、
書簡102の後でなぜこれほどブランクが空くのか。
それはやはり会って口論となったからであり、
だからこそ書簡102aを書き送ったのではないでしょうか。

書簡144「私こそ永々とご無沙汰しましたが‥」

激突し、あのような激しい手紙を出したあとだからこそ、ぷっつりと書けなくなったのだと思います。
嘉内からすぐ返事があったでしょうか。
あったとしてその返事にすら満足できずに、賢治はひとり悶々と苦しんだのではないか。
そして返事が来ないので嘉内が再び手紙を出したか、或いは嘉内も悶々として、最初の返事が4月になったか。いや、「私こそ」とあるからには、返事があったのにそれに答えていなかったからか…。
書簡145、146も共に賢治は手紙の代わりに短歌を書き送っています。
何も言えない言いたくない。
淋しく傷ついていたために、歌くらいしか送れなかったのだという気がします。

7月になってからやっと長い手紙を書くのですが
賢治はどんどんノイローゼっぽくなっていきます。
書簡152a(157)「いそがしかったためです。からだがいそがしいのではありません。…」「私は実はならずもの ごろつき さぎし、ねじけもの、…実は元来あなたに御便りする資格もなくなりました。…」

書簡153(8月上旬)「私は」とてもあなたの居る中に東京へは出て行けません。」

嘉内から、また東京で会えないかとの手紙が来たのでしょう。
嘉内は県から青年指導者に選ばれたりして光の当たるところにいる。自分はといえば仕事のあてもなく、薄暗い店先で幻覚にさえとりつかれている。
書簡154(8月20日前後)「O,JADO!O,JADO!」「見よ。このあやしき蜘蛛の姿。あやしき蜘蛛の姿。」

書簡155(8月30日)「あんなに破壊的な私の手紙にも乱れずあなたの道を進むといふあなたを尊敬します」

書簡159(大正9年2月ころ)「はなれてゐたと云へばはじめからです」


そんな賢治の気持ちが転調するのは春になってから。
昨年末から志願兵として入営していた嘉内から、その様子を綴った手紙が届くようになったのでしょうか。波はあるものの、どん底から浮上する気配がします。
さらには賢治は夏頃になって、来春には東京に出ることを考え始めました。
書簡166(7月22日)「東京デオ目」カゝッタコロハ実際ノ行路ニハ甚シク迷ッテヰタノデス。」

この「東京で会った頃」というのはやはり大正7年末~8年初めのことで、
地質調査を終えたが家業も継ぎたくなく、東京での仕事を模索していた時期。
それ以前は調査で出歩いていて東京に行くのは難しい気がしますし、
その後も書簡を見る限り東京に出た気配はなさそうです。
「最早全ク惑ヒマセン。」
賢治は何を確信したのでしょうか。
書簡167も168も、来春はお目にかかる、間違いなくそちらへ出る、と書いています。
こんなに賢治が浮き足立っているのは、この頃の嘉内の感触がよかったためではないでしょうか。恐らく法華経や日蓮について真剣に勉強してみる、というような…?

大正9年12月2日、書簡177で、突然賢治は国柱会に入ったと書き送ります。
嘉内が国柱会のことを深く調べているのを知り、これなら突破口になるはずだと思ったに違いありません。

賢治は結局、春になるのを待てずに、大正10年1月24日、背中に落ちてきた御書と御本尊、そして洋傘を持って着の身着のまま、誰にも黙って午後5時12分の汽車に飛び乗ってしまうのです。
親愛なる嘉内を、こんどこそ説き伏せられると信じて…。
 

大正7年から10年の初めにかけての賢治と嘉内について、
もうどうしてもこんな気がして仕方がないと思うことを
書き綴ってみましたが、さてどうでしょうか…。
nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。

×

この広告は1年以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。