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『雨ニモマケズ手帳』と『遺書』 [本]

『雨ニモマケズ手帳』が、発見されたのは
東京新宿のモナミで開催された
第1回「宮沢賢治友の会」のときだったといわれています。

永瀬清子さんは「『雨ニモマケズ』の発見」として
『宮沢賢治研究』11号(宮沢賢治研究会、1972年)に、
「この手帖がこの夜のみんなの眼にはじめてふれた事については疑いがないように私は思う」
と書かれています。


でも、そういえば確か、賢治が父母と弟妹にあてた遺書も一緒にポケットに入っていた、と
清六さんは『兄のトランク』に書かれていました。

う~ん、永瀬さんの文章には遺書のことなどどこにもなかったようだし。
もし「宮沢賢治友の会」で遺書が見つかっていたら、
ものすごく注目されるし話題にならないはずはない…?

そこで、「積ん読」状態だった小倉豊文さんの
『「雨ニモマケズ手帳」新考』(昭和53年・東京創元社)を
ひっぱりだして読んでみたら解決しました。

清六さんが「宮沢賢治友の会」のためトランクを出してきて掃除していたとき
裏蓋のポケットに、『雨ニモマケズ手帳』が入っているのを見つけた、
それをそのまま持って上京し、皆に披露。
その後、花巻に帰って、再び清六さんが手帳を取り出したりしたとき、
裏蓋に密着していたのかそれまで気づかなかったハトロン紙の封筒2通を発見した。
これが『遺書』だった、ということらしい、と。
なるほどー!

奇しくもその『遺書』は、昭和6年9月21日、ちょうど亡くなる2年前の日付、
神田駿河台の八幡館で発熱、死を覚悟してしたためたもの。

一通は「清六様」、もう一通は「父上様 母上様」とあり
いずれも便せんは八幡館という旅館の名前が刷り込んであるものでした。


《清六様》

たうたう一生何ひとつお役に立てずご心配ご迷惑ばかり掛けてしまひました。

どうかこの我儘者をお赦しください。

                      賢治

   清六様
   しげ様
   主計様
   くに様


  《父上様 母上様》

 この一生の間どこのどんな子供も受けないやうな厚いご恩をいたゞきながら、いつも我慢でお心に背きたうたうこんなことになりました。今生で万分一もついにお返しできませんでしたご恩はきっと次の生又その次の生でご報じいたしたいとそれのみを念願いたします。

 どうかご信仰といふのではなくてもお題目で私をお呼びだしください。そのお題目で絶えずおわび申しあげお答へいたします。

      九月廿一日
               賢治
    父上様
   母上様

誰が何のために「陰謀」? [思うこと]

ヒドリヒデリ問題にも関連することですが
このところなにやら“妙なもの”を感じるようになりました。


1・正しい?『銀河鉄道の夜』

ツイッターで偶然目にしたつぶやきによって
有名な社会学者のM台S司という人が
ブログに『銀河鉄道の夜』についてトンデモないことを書いているのを知りました。
1966年小2の時に初めて読んだ『銀河鉄道の夜』を、1968年に再度読んで仰天したというもの。

「弟・宮沢清六氏、最初の原稿整理者・森荘巳池氏、岩波版童話全集の編集者・堀尾青史氏の三者協議で、内容が大幅に変更されたというのです。
「カムパネルラの死の位置が変更され、セロの声をしたブルカニロ博士の挿話が削除されました。初期型と後期型と呼ぶとします。四十年間何度も読み返してきましたが、初読の印象が強かった点を割り引いても、初期型が正しい。病死まで十年間改稿が重ねられた作品で、賢治が死なななければ最終型がどうなったか判りませんが、必ず初期型になったはずです。 」

その後の部分の作品の評論に関しては
解釈は人それぞれ自由でありこの場では触れません。
が、この「初期型が正しい」とか「必ず初期型になったはずです」というのは理解できません。

このM台氏が「初期型」と呼んでいるのは、今の賢治研究での「銀河鉄道の夜 初期形」とは違い、
筑摩書房の昭和31年版全集までの誤り多い「銀河鉄道の夜」だったようです。

ただし、1968年に読んだ「後期型」というのがどういうものかは不明。
ブルカニロ博士の部分が削除されたのは1973年~77年発行の校本全集以降なので
それが消されていたというのはちょっとつじつまが合わないのです。
(ちなみに私が1980年頃に買った新潮文庫・角川文庫はともに
まだ最後にブルカニロ博士の部分が残っていました。)

「カムパネルラの死の位置が変更され」たという意味もよくわかりませんが
ともかく、何か清六さんと森さん堀尾さんの3人が勝手に削除してしまったかのような書き方ですし
きちんと調べる気があれば、簡単に、
本文が決定されるに到った経緯や研究のされ方がわかるはずです。
一般人ならともかく、大学教授で名のある社会学者の姿勢なのかと思うと残念です。
(ゆえに、その後の作品解釈において何の説得力もなくなってしまいます。
もっとも最初から私にはチンプンカンプンですが。)
その上、何故か最初に子供の頃に読まれたバージョンにこだわって
それが「正しい」と言い切ってしまわれることが不思議というよりなんだか恐ろしい気もします。


2・抹殺された?『風野又三郎』

そうこうしていたら、またまたツイッターにてこんなつぶやきがあるのを知りました。

「宮沢賢治の風の又三郎・銀河鉄道の夜って舞台山梨県だったことを昨日知りました。
初版本見たら確かに八ヶ岳と書いてあった。宮沢賢治の地元が後で書き換えたとかで
重版から場所変わっていた・・・・。」

個人攻撃をしたいわけではないのであえて誰の発言かは記しません。
私もまったく知らない方です。

確かに『風の又三郎』は八ヶ岳の部分が削られていますが
それは賢治自身の手によって話が大きく変更されたからです。

先駆型の『風野又三郎』には、八ヶ岳のサイクルホールの話が出てきます。
そしてそれは最新の校本全集にもちゃんと収録されています。
ややこしいのですが、『風の又三郎』は『風野又三郎』の重版ではなく、
まったく別の話ととらえていただくべきものなのです。
話を大きく変えたのは賢治自身ですし
ましてや「賢治の地元が後で書き換え」るなんてことはありえません。

これは何か、花巻側にとって山梨が舞台だと都合が悪いから
削除して書き換えたとでもいうようです。
何の都合が悪いことがあるというのでしょうか。
いったいどこの誰が、こんなことを言うのでしょうか。

山梨といえば保阪嘉内の地元。
賢治は嘉内から何度も八ヶ岳颪や風の三郎の話を聞いていたはずで
『風野又三郎』もこれらの話を参考に書かれたと思われます。

ところが、嘉内は賢治と宗教上の言い争いをしたまま、
別れることになってしまいました。
結局その時(大正10年7月)が、二人が会った最後だと推測されています。

そういうことを見聞きした人が、
「岩手の方では賢治の宗教の誘いを断って
喧嘩別れしたヤツなどケシカラン!という風潮があり、
山梨の話なぞ消してしまえということになった」
といった詮索をしたに違いありません。

これは、宮沢家と岩手の人々はもちろん、
保阪家と山梨の人々に対して、非常に侮辱したことです。


賢治の定稿に関しては
きちんと検証されて決定したものであり、さらに丁寧に校異として
細部にわたって誤字脱字でさえも確認できるように公表されているのです。
元の原稿に関しても、手続きを踏めばコピーを入手できます。
どこの誰であっても、たとえ宮沢家の人であっても
改竄することは全く不可能なことです。

そのことすら知らず、調べようともしないで
にわかに多少の知識を持った人の
妙な憶測によってトンデモナイことがまことしやかにささやかれる。

その矛先は遺族だったり関係者や地元だったり
研究会や機関だったり、特定の研究家だったり…

でもいったい誰が何のために???
そんな陰謀めいたことを疑うのでしょうか。

真面目な研究や探求心とはほど遠い
対極のところにあるものと思います。

週刊誌やネットニュースのゴシップ記事にとびつく、
あるいは人の噂をあることないこと言いふらしたり
視聴率さえとれればナンデモアリのTV番組などと同質のもの。

清六さんが「スキャンダル」と呼んだものの正体がここにある気がします。

George Harrison 『Devil's Radio』♪

なぜまだ「ヒドリ」? [思うこと]

宮沢和樹さんの講演会で
「ヒデリ」・「ヒドリ」についての質問が出たことから
ここ数日、そのことについて検索したり調べたりしています。

入沢康夫さんの
『「ヒドリ」か、「ヒデリ」か 宮沢賢治「雨ニモマケズ」中の一語をめぐって』(書肆山田)によれば
最初に「ヒドリ=日雇い」説が賢治の教え子によって主張されたのは
1989年9月16日、宮沢賢治研究会の例会でのこと。
さらに翌月の10月9日には、読売新聞全国版社会面で大きく報道されました。
(なぜこんなことが大々的に報道されたのかという疑問が残ります。)

折に触れ、入沢さんをはじめとする実績のある研究家の方々によって
「ヒデリ」とする明確な理由と根拠が示されているにもかかわらず
以降、「ヒドリ」説はなぜか支持する人が絶えず、
現在でもネット上のあちこちで議論されていたりします。
まさに馬の耳に念仏のように、聞く耳を持たない人が多いのに驚きます。

議論を幾つか見ていると気づくことがあります。
「ヒドリ」が正しいと言う人の共通点は、
①ヒドリは日雇いの意味の花巻方言だと言い張るだけでその根拠はいっこうに示さない。
②賢治が書いたものを勝手に書き換えるとはなんたることだと怒る。
さらに酷い人になると
③一部の賢治の会や人々による陰謀だという。
④我こそは賢治の真の理解者だと自負している。

「ヒドリ」支持の人は「日照りに不作なし」という諺を挙げていますが、
それは明治以降の灌漑が整った地域でのことであり
花巻でも昭和36年に豊沢ダムができるまでは農民は旱魃に苦しめられていました。
ふと思うに、もし花巻で「ヒデリにケガチなし」と言った人があったとしたら、
ダムができ、これでもう水不足を恐れることがなくなったという
喜びを表していたのではなかったかと思います。

賢治の書いたものを勝手に直すとはけしからん、
その通りに表示すべきだというのなら、
「北にケンクワヤソショウガアレバ」の前に書かれている
「行ッテ」も必ず書かねばならないはずですが、
それを主張する人にまだ会ったことがないのはなぜでしょうか。

頑固に「ヒドリ」を主張する人は、いったい何のために?
というのが私の素朴な疑問です。 


 ※最後から2行目、肝心なところで「ヒドリ」を「ヒデリ」と間違えて書いていました。
   指摘して頂いたので、訂正しました。ありがとうございました。(10/18)
   

宮沢和樹さん講演会『祖父・清六から聞いた兄・賢治』 [催し物]

静岡の駿府博物館で10月12日(土)から始まった、
特別展 没後80年「宮沢賢治・詩と絵の宇宙 雨ニモマケズの心」を見てきました。

当日、あまり時間がなく、ぎりぎりまで迷っていたのですが
えいっ、なんとかなる、って感じで慌ただしく。
でも思い切って行ってよかったです。

一番の目的は、宮沢和樹さんの講演。
定員60名の会場になんと170名が押し寄せ、
殆どの人が立ち見ということになりました。
(もちろん遅くから行った私も立ち見…)
夏のように暑かったけれど会場内はさらにヒートアップ。
そんなこともあって講演は少し早めにスタートされました。

賢治さんは、ストイックなイメージがあると思いますが
実は面白く楽しい人だった、という清六さんに聞いた話から。

コートを着てうつむいている写真はじつはベートーベンの真似という話には
会場から「ほー」という声が。
それから、賢治の身長は自称5尺5寸5分、
清六さんとほぼ同じ166~167㎝くらいだったのでしょう、など。

なんのつてもなかった清六さんが
賢治作品を世に出す努力を続けられたのは
高村光太郎さんが賢治の詩を認めてくれたことが支えになったからだそうです。
その光太郎さんに詩集『春と修羅』を読んでくれるよう渡したのは、草野心平さんでした。
光太郎さんは「自分のものよりも後に残る作品かもしれない」とまで言ったそうです。

花巻空襲の時、清六さんが命がけで防空壕の賢治作品を守った話は有名ですが、
和樹さんも、賢治が今も読み続けられ、自分がこうやって話ができるのは
心平さん、光太郎さん、祖父・清六さんらのおかげであり
賢治を読み、表現したり作品にしたりして
後につながる人がいるからだというようなことを仰っていました。

昭和20年4月に花巻に疎開してきた光太郎さんが
なぜ防空壕がないのかと言ったことから防空壕を作ったのですが、
結果的にそのことが賢治作品を守ったこともあって
宮沢家がどれほど光太郎さんを敬愛し感謝していたかがわかります。


3.11の東日本大震災後
賢治の『雨ニモマケズ』がすいぶん取りざたされました。

和樹さんは、震災被害で家族や家をなくした人々の前で
「ガンバレ、我慢しろ」というようなものであり、
はたしてどう思われるのだろうと案じていたそうですが
時がたつにつれて「行ッテ」という言葉が救助やボランティアの人の原動力になると感じ
それでよかったのかなと思うようになったと。

清六さんによれば、一見放蕩三昧の賢治を父・政次郎が認めたのも
この「行ツテ」という生き方があったから。
賢治は行動の人だった。

詩でも童話でもないこの『雨ニモマケズ』を発表することを
清六さんははじめ躊躇されたそうですが、
ここにはこの「行ツテ」、すなわち賢治の生き方が表れているから決心されたそうです。

ちなみに『雨ニモマケズ』の最後の曼荼羅には
「~行菩薩」が四つ入っている、そのことに和樹さんは最近気づかれたそうです。
もちろん賢治はそのことを念頭にこの曼荼羅を描いたのでしょうね。

それから「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」について、
清六さんはこの「が」を抜いてはだめだよ、と和樹さんに言ったそうです。
人間が中心なのではなく
世界が、すべてのものが、という意味なのだと。

講演後の質問コーナーでは良い質問がたくさん出ました。

詩の解釈について訪ねた人がいたのですが
それは書いた本人にしかわからないことであり、
ひとそれぞれでよいのだ、と和樹さん。

清六さんはどんな人でどんなことが思い出に残っているかという質問には、
清六さんは賢治が好きだった即興詩人の国イタリアやイギリスに行きたくて
和樹さんをつれてヨーロッパに行ったのですが、
ベニスのゴンドラに乗っていてハーモニカを吹いていたら
地元の人達がたいへん喜んで、しかもそれが東洋人だと知りビックリされたというお話。

それから、ヒデリ・ヒドリについての質問。
これは、最初に清六さんと光太郎さんが話し合って「ヒドリ」を「ヒデリ」に直したということ。
その理由は、賢治は少なくとも5カ所以上、「で」を「ど」と書き間違えていること。
そして「雨ニモマケズ」は、方言が使われていないこと。

たしかに「ヒドリ」という方言(日雇いの意味)はあるが、
「雨ニモマケズ」は方言ではなく全て標準語で書かれ
この部分だけ方言が使われることはまず考えられない為。

ところが30年ほど前に賢治の教え子の一人が「ヒドリ」が正しいと言ったことを、
まず週刊誌が面白がって取り上げ、火をつけたこと、
そして研究者と論争になった、
裁判をするとまで言い出した人もいたという経緯を話されました。
(「賢治もツマラナイカラヤメロと言っているのに」と言うと会場も爆笑)

清六さんは和樹さんに、「お前はこっちが正しいとか言う必要はない」と言われたそうです。
必要ならば注釈で記せばよいこと、と。

いずれ明らかになっていくことであり
「これは“スキャンダル”だからかかわるな」とも。

私にはこのスキャンダルという言葉が非常に厳しく感じられ
突き刺さったのです。

私も曲がりなりにも、一愛好家としてブログ等で考えや思いを発信している身ですが
正しいことのつもりでいても
果たしてそれがどういう意味を持つのか何のためかを常に考え
襟をただして様々な事柄と向き合っていくべきであり
研究者ではないからとか無名だからとかいって甘えやいいかげんな発言は許されないことだと
喝を入れられたように感じました。

とはいえ、 疑問や考えを提言していくことは必要なことであり
また、誰でも自由にものが言えるようでなければならないとは思うし
何がほんとうで何が間違いかは、
すぐに判別がつかないことも多いとも思います。
問題は、間違いや矛盾が明らかになったにもかかわらず
それを撤回することなく主張し続けたり相手を非難する態度だと感じました。

清六さんが、賢治を敬愛してきたはずの教え子とその取り巻き(?)に対して
あえて“スキャンダル”という強い言葉を使ったのも
恐らくそういったことへの批判と残念な気持ちだったからだと思います。

書いた本人、つまり賢治がこの世にもういない以上、
ほんとうのことがわからない。
賢治作品には本人が決定した定稿がない。
なぜなら、製本されてできあがったものにさえ
数種類のバージョンの賢治による手入れ、つまり書き換えがあるくらいなのですから。

これを、ほんとうに正しいのはどれかを決めることはナンセンスで不可能です。
明かな書き間違えと思われることも
一部の人から言わせるとねつ造になってしまう。

しかしながら、こんな状態の賢治の原稿と
気の遠くなるような膨大な時間と労力をかけて
ひとつひとつ検証し、決定してきた人達がいます。
その人達でさえ、この最終形が絶対正しいとしているわけではない。
必ず、校異をつけ、誰もがもとの原稿の状態を確認できるようにしているのです。

それが、宮澤賢治と他の作家との大きな違い。
最新の校本をみればわかりますが
本文編ともう一冊必ず校異編がセットになっているのはその為です。
誰一人として、どの作品ひとつとして
故意に削除したり付け加えたり、ねじ曲げたりはしていないし、できないようになっているのです。

私たちが今、賢治作品を心ゆくまで安心して楽しんで
咀嚼して自分の血肉にできるのは
その方々のおかげだと思います。

つまり、賢治の原稿を知り尽くして考え抜いて決定された“本文”には
疑惑や邪推の入り込む余地などどこにもあり得ないのです。
このことは『年譜』についても言えることと思います。
不明な点や曖昧なことは、きちんと説明や参照・引用のもとが明記されています。

和樹さんのお話を聴いて
賢治作品を守ってきた清六さんの考え、
「宮沢賢治」の親族としての姿勢、在り方を
清六さんは和樹さんを常に側において示し続けておられたことを感じました。

清六さんはマスメディアや表舞台に出るのは好まなかったそうですが
それでも、かつて、賢治を慕って花巻を訪れる見知らぬ若者を
喜んで歓迎し家に招いた、などという話をよく耳にします。

一方の和樹さんの素朴で誠実にお話される姿からは、
ありのままの賢治の良さを伝えたいという一心が伝わって来ます。

賢治の宗教観についても興味深いことを伺いましたが、
長くなるのでまた次回にでも。


唯一の心残りは、慌ただしくて
じっくり原画を見られなかったこと。
それでも、賢治の絶筆、遺書、絵と
『雨ニモマケズ手帳』のホンモノは見てきました!
鉛筆の跡、筆跡の強弱を見ていたらじーんとしてしまいました。

この手帳は10月27日までで、その後はレプリカになってしまいますので
見たい方はそれまでにぜひ。

       ※

駿府博物館
特別展 没後80年「宮沢賢治・詩と絵の宇宙 雨ニモマケズの心」

2013年10月12日(土)-2013年11月24日(日)

開館時間
午前9時30分~午後5時30分(入館は午後5時まで)

休 館 日
月曜日(※10月14日、11月4日は開館し、翌日休館

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嘉内は駄洒落好き [保阪嘉内]

保阪嘉内の歌稿に『文象花崗岩』というのがあります。
大正6年10月~12月にかけて編んだものです。

「ぶんしょうかこうがん」と読みますが
これが「文章書こう」にひっかけた駄洒落であることは
よく言われていることのようです。


先日、『河本緑石「アザリアの友へ」』という書簡集を手にする機会に恵まれました。
緑石に宛てた書簡の、原本のコピーが収められている本で、1997年発行。
おそらく、身内や一部の関係者、研究家などにしか渡っていないものかと思われます。

ここに収められている嘉内から緑石への書簡は9通。
そして、そのなかに面白いものを発見。

嘉内が勉学に燃え、女子に萌え、青春を謳歌していた盛岡高等農林学校。
大正7年3月、賢治は卒業し、いよいよ3年生に進級という時、
嘉内は突然の理由なき除名処分を受けたのです。
春休みで帰省していた嘉内は、賢治からの手紙によってこのことを知らされました。

そして次の手紙は、封筒が残っていないものの、内容から5月か6月頃と推測されるもので、
失意のなかにあっても再度学問を望み、受験のため東京に下宿していた時の手紙です。

前半は盛岡で妻と暮らしながら盛岡高等農林に通う緑石に
懐かしさと淋しさを訴える内容で、後半から引用。

昨日偶然に市村(仝君の処へは前に一度訪ねたり)市來、福地、来訪、盛岡回旧(※懐旧)の談はづみて、去にし日を忍ばんものと舒明会……蓋し盛岡高農除名を紀念するため、その音に依りて舒明とせしもの。除名、舒明、音相通ず、……を起し一宴を催し夜半相散り申し候。されど舒明より女迷とでも名けし方適当なりたるべし、呵々、その夜も盛岡の話し出でて心躍り申し候ひき。 (以下略)

除名されたことを「舒明会」と名付けて懐かしい友と飲み、
あるいは「女迷会」がいいか、と笑ってみせる。

賢治が送った手紙から想像される嘉内の様子とはまた違った顔が見える手紙です。
あるいは賢治に対しても、こんな感じの手紙だったのかも知れませんが
肝心のものが残っていないので、はたしてどうだったか。

大正8年のノートに残っている「藤井青年團々歌」には
「我健児(わがけんじ)」という歌詞があります。
これも「我がケンジ」と重ねたに違いないと、皆にっこりしてしまうところです。
この歌は実際に藤井青年団で歌われていました。

ほかにも嘉内の残したものを探せば
たくさん駄洒落が出てきそうな気がしますが
いずれぼちぼちと…。

この直後、母の死という不幸が追い打ちをかけ、
結局嘉内は進学を諦めることになります。

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