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『ゆうじょこう』村田喜代子 [本]

村田喜代子さんの『ゆうじょこう』(新潮文庫)を読んだ。

明治36年、硫黄島の貧しい漁師の娘・イチが、
父親に売られて十五で熊本の大遊郭にやって来るところから物語が始まる。

過酷な運命の中、懸命に生きる少女たちの姿を描く村田喜代子さんの筆は、
けっしてじめじめとはしていないことが救いである。

随所に挟まれる、イチが女紅場(遊女たちの学校)で書くお国なまりの日記が
彼女の感性と聡明さと健気さを現し、
イチはもとより、読者の心の拠り所ともなる。

男のための社会。
遊女は借金の形に差し出され、
男を喜ばすための技能をたたき込まれる。
それはまだいいほうの楼閣で、
等級の低い貧しい見世では、ただ男たちの欲望のままのおもちゃになり
心身をボロボロにすり減らし、運の悪い者は命を落とす。

福沢諭吉は「天は人の上に人を造らず」と言った人物として
一万円札にも肖像が刷られているが
じつはとんでもない差別主義者だったことを知った。
諭吉が人間として見ていたのは、身分ある家の婦女子のみで、
いかに書を読み博学多才であっても、気品が高くなければ淑女ではない、と。

〈例えば芸妓などと言う賤しき女輩が衣裳を着飾り、酔客の座辺に狎れて歌舞周旋する其の中に、漫語放言、憚る所なきは、(中略)之を目して座中の淫婦と言わざるを得ず〉

〈芸妓の事は固より人外として姑く之を擱き〉

のっけから遊女を「賤しい女輩」と断定し
人間ではないと言い放っているのである。


誰も自ら好きこのんで遊女になった者はいない。


福沢諭吉は、このころ起きてきたストライキを咎め
「国の力をつけるためには、智慧なき貧しい者の言い分をいちいち聞いているわけにはいかぬ」とも言ったらしい。
この構図は、まさに現在進行形ではないか!と背筋が凍る。
今の私達の社会は、明らかに時代を逆行している。

「けれど大きなものばかりを大事と見るのは、国にとっても人にとっても、危ういことではありませんか」と、女紅場の教師である鐵子さんは憤る。
私には一万円札が、忌々しいものに見えてくる。


明治5年には「娼妓解放令」なるものができたが、
横浜にやって来たペルーに娼妓の奴隷売買だと咎められて、
かたちだけの通達をだして取り繕っただけの、実態の無いものだった。
同じ月に「牛馬切りほどき令」と呼ばれる通達がでる。
〈娼妓芸妓は人身の権利を失ふ者にて、牛馬に異ならず。人より牛馬に物の返弁を求むるの理なし。故に従来同上の娼妓芸妓へ借す所の金銀並に売掛滞納金等は、一切債るべかざる事〉

つまりは遊女は牛や馬と同じと言っているのだ。

精神科医・斉藤環さんの「関係する女 所有する男 (講談社現代新書)」という本に
男は妻子を、自分が柵の中で飼っている牛だと思っているのだ、と書いてあったのを思い出す。

女は、牛ではない。
現代では、どんな女性も人間として扱われている?
そうだろうか?
まだまだ、社会は男のものだ、と思う。

折しも、救世軍や婦人団体の運動もあって、娼妓の自由廃業の道が開かれつつあった。
明治37年の暮れ、楼閣の花魁をはじめとするイチたち35人は、
待遇の改善をせまりストライキを起こした末に、ついに見世を抜け出すことに成功する。

イチの故郷の海では
大きな海亀は神様だった。
イチはその夜、その神様とともに裸になって泳ぐ夢を見る。
遊女から、人間の女に生まれ変わったのである。


ゆうじょこう (新潮文庫)


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保阪庸夫さん [思うこと]

保阪嘉内の次男・庸夫さんが7月5日の夕方、
天国へと旅立たれました。

甲府の手紙展と渡辺えりさんの講演があるということで
私は、7月9日・10日の二日間、山梨に行く予定を立てていたところでもあり
庸夫さんのお見舞いにも行けるつもりだったので
お知らせをもらったとき、まさかと愕然としてしまいました。

8日の告別式とその後の偲ぶ会に参加させて頂きましたが
庸夫さんのお人柄が偲ばれる温かなものでした。
親族はもちろん、賢治やアザリア関係の方々が
心から庸夫さんの逝去を悼んでおられました。
聞くと、前日7日のお通夜の夜には
七夕には珍しく空が晴れ、
ベガ・アルタイル・デネブの夏の大三角形が輝いていたとか。
庸夫さんはその中を銀河鉄道に乗って行ったのでしょうか。


庸夫さんに初めてお会いしたのはたしか2008年。
何の実績も肩書きもない、ただのいち賢治&嘉内ファンだった私を、
ほんとうに温かく迎えてくださった。
奇しくも賢治の命日の9月21日。

一見厳しそうでも、ほんとうはその懐は海のように深く広く、優しく、ユーモアにあふれた方でした。
そして、どんなひとにも分け隔てなく接する方でした。

韮崎駅から電車に乗って帰る私を、アザリア記念会の皆さんと一緒にわざわざ来て送ってくださって、握手をして頂いた手の優しさと温かさの感触が、今も忘れられません。
電車が来て乗り込むまで、高架下の広場からホームに向かって手を振ってくださったお姿が忘れられません。

短い時間の中でも、ひととして、もっとも大切なものを教わったような気がします。
もっともっと、いろんなお話を聴きたかった。

賢治研究の世界に、庸夫さんが遺したものの大きさは
おそらく時間が経つほどに理解され、認められるものだと思います。

庸夫さんは私にとって、嘉内、賢治と同じくらい大きな方でした。

今ごろは父・嘉内や大好きな賢治と会って
積もる話をしておられるのではないかと思います。

私もまたいつかは向こうの世界へと行く。
それまでの間、
少しでも庸夫さんの遺志を受け継ぎたいと思うし、
自分自身の一日一日を大切に生きることが、
何よりよろこんで頂けることかもしれないとも思う。

「庸夫先生、あちらでまたお会いできる日を
楽しみにしています!」

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昨年の碑前祭での庸夫さん





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