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誰が何のために「陰謀」? [思うこと]

ヒドリヒデリ問題にも関連することですが
このところなにやら“妙なもの”を感じるようになりました。


1・正しい?『銀河鉄道の夜』

ツイッターで偶然目にしたつぶやきによって
有名な社会学者のM台S司という人が
ブログに『銀河鉄道の夜』についてトンデモないことを書いているのを知りました。
1966年小2の時に初めて読んだ『銀河鉄道の夜』を、1968年に再度読んで仰天したというもの。

「弟・宮沢清六氏、最初の原稿整理者・森荘巳池氏、岩波版童話全集の編集者・堀尾青史氏の三者協議で、内容が大幅に変更されたというのです。
「カムパネルラの死の位置が変更され、セロの声をしたブルカニロ博士の挿話が削除されました。初期型と後期型と呼ぶとします。四十年間何度も読み返してきましたが、初読の印象が強かった点を割り引いても、初期型が正しい。病死まで十年間改稿が重ねられた作品で、賢治が死なななければ最終型がどうなったか判りませんが、必ず初期型になったはずです。 」

その後の部分の作品の評論に関しては
解釈は人それぞれ自由でありこの場では触れません。
が、この「初期型が正しい」とか「必ず初期型になったはずです」というのは理解できません。

このM台氏が「初期型」と呼んでいるのは、今の賢治研究での「銀河鉄道の夜 初期形」とは違い、
筑摩書房の昭和31年版全集までの誤り多い「銀河鉄道の夜」だったようです。

ただし、1968年に読んだ「後期型」というのがどういうものかは不明。
ブルカニロ博士の部分が削除されたのは1973年~77年発行の校本全集以降なので
それが消されていたというのはちょっとつじつまが合わないのです。
(ちなみに私が1980年頃に買った新潮文庫・角川文庫はともに
まだ最後にブルカニロ博士の部分が残っていました。)

「カムパネルラの死の位置が変更され」たという意味もよくわかりませんが
ともかく、何か清六さんと森さん堀尾さんの3人が勝手に削除してしまったかのような書き方ですし
きちんと調べる気があれば、簡単に、
本文が決定されるに到った経緯や研究のされ方がわかるはずです。
一般人ならともかく、大学教授で名のある社会学者の姿勢なのかと思うと残念です。
(ゆえに、その後の作品解釈において何の説得力もなくなってしまいます。
もっとも最初から私にはチンプンカンプンですが。)
その上、何故か最初に子供の頃に読まれたバージョンにこだわって
それが「正しい」と言い切ってしまわれることが不思議というよりなんだか恐ろしい気もします。


2・抹殺された?『風野又三郎』

そうこうしていたら、またまたツイッターにてこんなつぶやきがあるのを知りました。

「宮沢賢治の風の又三郎・銀河鉄道の夜って舞台山梨県だったことを昨日知りました。
初版本見たら確かに八ヶ岳と書いてあった。宮沢賢治の地元が後で書き換えたとかで
重版から場所変わっていた・・・・。」

個人攻撃をしたいわけではないのであえて誰の発言かは記しません。
私もまったく知らない方です。

確かに『風の又三郎』は八ヶ岳の部分が削られていますが
それは賢治自身の手によって話が大きく変更されたからです。

先駆型の『風野又三郎』には、八ヶ岳のサイクルホールの話が出てきます。
そしてそれは最新の校本全集にもちゃんと収録されています。
ややこしいのですが、『風の又三郎』は『風野又三郎』の重版ではなく、
まったく別の話ととらえていただくべきものなのです。
話を大きく変えたのは賢治自身ですし
ましてや「賢治の地元が後で書き換え」るなんてことはありえません。

これは何か、花巻側にとって山梨が舞台だと都合が悪いから
削除して書き換えたとでもいうようです。
何の都合が悪いことがあるというのでしょうか。
いったいどこの誰が、こんなことを言うのでしょうか。

山梨といえば保阪嘉内の地元。
賢治は嘉内から何度も八ヶ岳颪や風の三郎の話を聞いていたはずで
『風野又三郎』もこれらの話を参考に書かれたと思われます。

ところが、嘉内は賢治と宗教上の言い争いをしたまま、
別れることになってしまいました。
結局その時(大正10年7月)が、二人が会った最後だと推測されています。

そういうことを見聞きした人が、
「岩手の方では賢治の宗教の誘いを断って
喧嘩別れしたヤツなどケシカラン!という風潮があり、
山梨の話なぞ消してしまえということになった」
といった詮索をしたに違いありません。

これは、宮沢家と岩手の人々はもちろん、
保阪家と山梨の人々に対して、非常に侮辱したことです。


賢治の定稿に関しては
きちんと検証されて決定したものであり、さらに丁寧に校異として
細部にわたって誤字脱字でさえも確認できるように公表されているのです。
元の原稿に関しても、手続きを踏めばコピーを入手できます。
どこの誰であっても、たとえ宮沢家の人であっても
改竄することは全く不可能なことです。

そのことすら知らず、調べようともしないで
にわかに多少の知識を持った人の
妙な憶測によってトンデモナイことがまことしやかにささやかれる。

その矛先は遺族だったり関係者や地元だったり
研究会や機関だったり、特定の研究家だったり…

でもいったい誰が何のために???
そんな陰謀めいたことを疑うのでしょうか。

真面目な研究や探求心とはほど遠い
対極のところにあるものと思います。

週刊誌やネットニュースのゴシップ記事にとびつく、
あるいは人の噂をあることないこと言いふらしたり
視聴率さえとれればナンデモアリのTV番組などと同質のもの。

清六さんが「スキャンダル」と呼んだものの正体がここにある気がします。

George Harrison 『Devil's Radio』♪

なぜまだ「ヒドリ」? [思うこと]

宮沢和樹さんの講演会で
「ヒデリ」・「ヒドリ」についての質問が出たことから
ここ数日、そのことについて検索したり調べたりしています。

入沢康夫さんの
『「ヒドリ」か、「ヒデリ」か 宮沢賢治「雨ニモマケズ」中の一語をめぐって』(書肆山田)によれば
最初に「ヒドリ=日雇い」説が賢治の教え子によって主張されたのは
1989年9月16日、宮沢賢治研究会の例会でのこと。
さらに翌月の10月9日には、読売新聞全国版社会面で大きく報道されました。
(なぜこんなことが大々的に報道されたのかという疑問が残ります。)

折に触れ、入沢さんをはじめとする実績のある研究家の方々によって
「ヒデリ」とする明確な理由と根拠が示されているにもかかわらず
以降、「ヒドリ」説はなぜか支持する人が絶えず、
現在でもネット上のあちこちで議論されていたりします。
まさに馬の耳に念仏のように、聞く耳を持たない人が多いのに驚きます。

議論を幾つか見ていると気づくことがあります。
「ヒドリ」が正しいと言う人の共通点は、
①ヒドリは日雇いの意味の花巻方言だと言い張るだけでその根拠はいっこうに示さない。
②賢治が書いたものを勝手に書き換えるとはなんたることだと怒る。
さらに酷い人になると
③一部の賢治の会や人々による陰謀だという。
④我こそは賢治の真の理解者だと自負している。

「ヒドリ」支持の人は「日照りに不作なし」という諺を挙げていますが、
それは明治以降の灌漑が整った地域でのことであり
花巻でも昭和36年に豊沢ダムができるまでは農民は旱魃に苦しめられていました。
ふと思うに、もし花巻で「ヒデリにケガチなし」と言った人があったとしたら、
ダムができ、これでもう水不足を恐れることがなくなったという
喜びを表していたのではなかったかと思います。

賢治の書いたものを勝手に直すとはけしからん、
その通りに表示すべきだというのなら、
「北にケンクワヤソショウガアレバ」の前に書かれている
「行ッテ」も必ず書かねばならないはずですが、
それを主張する人にまだ会ったことがないのはなぜでしょうか。

頑固に「ヒドリ」を主張する人は、いったい何のために?
というのが私の素朴な疑問です。 


 ※最後から2行目、肝心なところで「ヒドリ」を「ヒデリ」と間違えて書いていました。
   指摘して頂いたので、訂正しました。ありがとうございました。(10/18)
   

「シグナルがぬれ」ているわけ [思うこと]

前回にも書いた「賢治には恋人があったに違いない」に関する続きです。

その恋人とは大畠ヤスではないかという説があり、(澤口たまみさん『宮沢賢治 愛のうた』など)
私も、そうかもしれないと思っています。

ヤスは昭和2年4月13日に、結婚後渡った米国で結核のため亡くなっていますが、
賢治の詩に一〇七一〔わたくしどもは〕という作品があり、
その詩が書かれたのはヤスが亡くなってから一月半後、昭和2年の6月1日です。

賢治がヤスの死を誰かから伝え聞いて、
この詩を書いたのではないだろうかということは
澤口さんも『宮沢賢治 雨ニモマケズという祈り』(とんぼの本 新潮社)で触れられています。

私は最初は、結婚相手の男性の身になって書かれたのだろうかとも考えましたが、
ヤスが結婚したのは大正13年で、亡くなったのはその3年後です。
妻と暮らしたのが「ちゃうど一年」というのが引っかかります。
もちろん作品ですから事実とは違っても当然なのですが…。
一方、賢治が農学校を辞め、羅須地人協会として独居生活を始めたのは
大正15年の4月です。
ちょうどその一年後にヤスが亡くなったことになります。
まさか賢治が、他のひとに嫁いだ女性の「幻」と一緒に生活をしていたとは思いませんが
詩という作品にするにあたって、
儚いヤスの生涯に想いを馳せ、
賢治自身の淋しい生活と重ね合わせて生み出されたイメージかもしれません。

さかのぼって、5月7日には一〇五七〔古びた水いろの薄明穹のなかに〕という詩を書いています。
その詩の最後の部分、

  そしてまもなくこの学校がたち
    わたくしはそのがらんとした巨きな寄宿舎の
   舎監に任命されました
   恋人が雪の夜何べんも
   黒いマントをかついで男のふうをして
   わたくしをたづねてまゐりました
   そしてもう何もかもすぎてしまったのです
     ごらんなさい
     遊園地の電燈が
     天にのぼって行くのです
     のぼれない灯が
     あすこでかなしく漂ふのです

この“恋人”が実際に雪の夜に通って来たかどうかは別として
恋人とのことを詩にしたと考えてもいいと思うのです。
 ここまでは澤口さんも書かれていることです。

「のぼれないたましい」とは
生き残った賢治自身の魂のことでしょうか。

そこで私は、ほかにも賢治がヤスの死を知ったという確証につながる手がかりはないかと
その前後の詩を読み返してみました。

すると、それと思われるキーワードがたくさん紛れ込んでいます。
主に『詩ノート』と呼ばれる、ノートに書かれた下書稿です。

5月13日には一〇六七『鬼語四』という短い詩。

   そんなに無事が苦しいなら
   あの死刑の残りの一族を
   おまへのうちへ乗り込ませやう

以下、日付順に、関連すると思った作品を書き出してみます。

6月1日には最初に挙げた一〇七一〔わたくしどもは〕の他に2編、
      一〇七二『峠の上で雨雲に云ふ』
     一〇七三『鉱山駅』
6月12日  一〇七四〔青ぞらのはてのはて〕
6月13日  一〇七六『囈語』
7月7日   一〇八〇〔栗の木花さき〕
7月10日  一〇八一〔沼のしづかな日照り雨のなかで〕

順番に詳しく見てみます。

一〇六七『鬼語四

 「無事が苦しい」とは、どういう意味でしょうか。
  ヤスをひとり先に死なせてしまって、
  自分だけが無事で生きていることへの苦しみではないのでしょうか。
  「四」という数字はもしかして「死」?

一〇七二『峠の上で雨雲に云ふ』 

  黒く淫らな雨雲(ニムブス)よ
   わたくしの暗い情炎を洗はうとして
   今日の旅程のわづかな絶間を
   分水嶺のこの頂点に登って来たのであるが
   全体 黒いニムブスよ
     ……翻訳家兼バリトン歌手
       清水金太郎氏の口吻をかりて云はゞだ……
   おまへは却ってわたくしを
   地球の青いもりあがりに対して
   風の城に誘惑しやうとする
   (中略)
わたくしをとらうと迫るのであるか

私は、賢治はここで二年前の【種山ヶ原詩群】と呼ばれる一連の詩のモチーフを取り上げています。


二年前、「かきつばたの花をなんぼんとなく折って」「ひとりの貪欲なカリフ」となった賢治は
   「靭ふ花軸をいちいちにとり
   あの噴泉を中心にして やがてはこゝに
   数箇の円い放射部落を形成して
   そのうつくしい双の花蓋を
   きららかな南の風にそよがせる」

   (三六八 『種山と種山ヶ原』   一九二五、七、一九、)


じつに官能的なこの詩は、当時別れた恋人への押さえきれない情愛を詩っていますが、
再び二年後のこのとき、その想いを蘇らせているのではないかと思うのです。
そして、ふたたびその暗い情炎に引き込もうとする黒い雨雲に
私をそっち側にとってくれるな、と言っているのではないでしょうか。

この一〇七二『峠の上で雨雲に云ふ』は
次のように「県技師の~」という題名に変化していることからもそれが伺えると思います。
もっとも種山ヶ原詩群では「耕地課技手」ではありますが。

ちなみに

 →『県技師の雲に対するレシタティヴ』では
「わたくしの暗い情炎」とあった箇所が

   「小官が任地の町の四年の中に受理したる
    心的創痕を
    洗ひ去らうと企てゝ
    今日の出張日程の」

→ 『県技師の雲に対するステートメント』では

     「また山谷の凄まじくも青い刻鏤から
      心塵身劬(く)ひとしくともに濯はうと」

というふうに、
賢治の詩が文語詩化されるとき
極力そぎ落とされ簡素化されるのとおなじように
『春と修羅 第3集』として編まれるときには
心情の生々しさは巧みに隠され、押さえた表現になっていきます。


一〇七三『鉱山駅』では
「シグナルもぬれ」というフレーズが2回でてきます。
 まさにシグナレスを失い、泣き濡れているシグナルの姿ではないでしょうか。
そして 「峠の上のでんしんばしらもけはしい雲にひとり立ち」とは
二年前に嘉内が結婚し、
向かい合って立っていたでんしんばしらが一本になってしまったかのような淋しさでしょうか。

 一〇七四〔青ぞらのはてのはて
青ぞらのはてのはて
      水素さへあまりに稀薄な気圏の上に
      「わたくしは世界一切である
      世界は移らう青い夢の影である」
      などこのやうなことすらも
      あまりに重くて考へられぬ
      永久で透明な生物の群が棲む

この永久で透明な生物のなかには妹トシとともに
ヤスの姿があったのではないか、と感じます。

一〇七六『囈語
囈語とは、 うわごと。ねごと。また、たわごとのことですが
「罪はいま疾にかはり
   わたくしはたよりなく
   河谷のそらにねむってゐる 」
という「罪」とは、まさに、ヤスを逝かせて
自分は生き残っているという罪悪感ではないのでしょうか。

一〇八〇〔栗の木花さき
 には
         今年も燃えるアイリスの花
      
       という一行、

一〇八一 〔沼のしづかな日照り雨のなかで
       には
          かきつばたの火がゆらゆら燃える
       
       という一行。

もういうまでもなくこれらも種山ヶ原詩群のあの恋人の化身「アイリス」です。


洞のやうな眼して
       風を見つめるもの……

うつろに風をみつめているのは
いったい誰なのでしょう。
異稿には「刈り手」とありますが
過去を見つめる賢治自身なのかもしれません。


以上のように、1927(昭和2)年の春の詩には
ヤスの死を賢治が知り、せつない想いに苦悩したと思われるような「言葉」がある、と
私は思うのですが、どうでしょうか。

最愛の妹・トシと恋人・ヤス、
二人が逝ってしまい、自分だけが生き残っている哀しみを
賢治は密かに抱き続けていたのではないかという気がするのです。



(※各作品は浜垣誠司さんの『宮澤賢治の詩の世界』に リンクさせていただきました)

「賢治の愛について」三年前と変わったこと [思うこと]

三年ほど前に賢治の愛についてツイッター上でやりとりをした「まとめ」を
先日、久々に読み返す機会がありました。

皆さんの深い考察に対して
私はただ横からちゃちゃを入れているだけだったような気もしますが
とても楽しく、またいろいろと考えもし、教わることができました。

さて、そして、今読み返すと
私自身は、当時の考えとは少し、というよりかなり違ってきています。

「すべての愛がエロス的である」というフロイトの考えがあることも
そのとき私は知らなかったわけです。
恐らくそれは誰にでも当てはまることなのでしょうが
それはそれで、賢治が果たして妹のトシや心友の保阪嘉内に
普通の愛情・友情以上のものを感じていたと考えるのは
当時から抵抗はありました。
つまり、近親相姦的な愛欲や同性愛といったものです。

確かに賢治は神経過敏で
他の人の感じないものを感じたり見たりしたかもしれませんし
とことん好きになってしまう、一直線のようなタイプだったかもしれませんが
先に挙げたような自ら罪悪感を持ってしまうような愛を
果たして強く持っていたかどうか。

一般的に研究家や愛好家によってそのように考えられることになったのも
「賢治は生涯独身で、生身の女性を知らなかった」
というのが大前提だったわけです。
そして三年前には私も、もれなくその考えでした。

それが揺らいだのは、その後、澤口たまみさんの
『宮沢賢治 愛のうた』(もりおか文庫)を読んでからでした。
賢治には相思相愛の恋人がいた!という推論であり
私も次第にそうかもしれない、と思うようになりました。

引用されている文語詩について
その詩に読まれている状況はまったく別の場面だという指摘があるのも知っていますし
私自身も、当時の女性にそこまでの大胆さはないだろう、と思うことはあります。
詩篇「岩手山」や「高原」を恋愛の物語の裏付けにしない方がよい、というのもうなずけます。

しかし、佐藤勝治さんから受け継がれた澤口さんの主張、
賢治が花巻農学校の教師になり「春と修羅」を書いたころに恋人があった、という事実は
長い間伏せられ、あるいは黙殺されてきたのではないでしょうか。
その背景にはさまざまな事情があるのだと思います。
いづれ、どなたかからそのことを伺える日が来ることを密かに願っているのですが。
その人の名を知ることが目的ではなく、
誤った賢治像が造られてきた要因に関わることだと思うからです。

賢治を崇拝するあまり
都合の悪いことは目をつぶり
罪もない人を悪人に仕立て上げてまで正当化することは
もう今では通用しなくなりつつあります。
銀幕のスターはトイレにも行かない、というのはもうオカシイ時代です。

澤口さんの出された本は
その黙殺されてきたことに対して、
今現在に一石を投じたことだというだけで私は評価します。

先にも書いたように
相手がどこの誰とか、どんなことがあったとかは
根掘り葉掘り知りたいとは思いません。
狭い地域で、それぞれの遺族の思いがあるはずです。
いや、もちろん、知りたいという気持ちも大ですが…。

話が少し逸れてしまったようです。
そういうわけで、私は、賢治に相思相愛の恋人があったことを知り
その愛を、賢治は病気のことや家のことによって
諦めざるを得なかったのだと思うようになりました。

つまり、賢治作品に、秘められ
抑圧されたものがあるのだとしたら
それは「無意識に」というよりは、
実際に諦めた恋があり
その女性に対する罪の意識や禁欲のためだと思います。

妹トシに対する愛。
嘉内に対する愛。
もちろんそれぞれに深く、それは作品にも表れているはずですが
表現された、あるいは慎重に隠されたものを
難しくとらえようとすればそれはいくらでもできてしまう。
無理に当て嵌めようとして
トシが、そして嘉内が、犠牲になったような気がしてなりません。
もちろんこれは私自身も犯してきた間違いです。

普通に、賢治に恋人がいたと仮定すれば
すべてが収まるピースを
無理にトシや嘉内のものではめようとすれば
どこかに歪みや隙間ができてしまう。
その隙間を心のどこかで長いこと感じてきたところへ
澤口さんの本と出会い、納得ができたのでした。

今の私はただ単純に、
賢治には愛する人があったが
その愛は秘められたもので
諦めざるをえないものであったために
賢治の作品にはその影響が見えるのだと思っています。

『賢治研究第115号』(2012.10.15 宮沢賢治研究会発行)の
栗原敦さんの記事にも、
賢治に交際のあった女性が実在したというのは事実、と書かれています。

どこの誰かもわからなければ
なかなか人に事実とは思ってもらえないのかもしれませんが、
賢治に恋人がいたと思って作品を読んでみると、
また違う発見があったり
深く感じることがあるのではないでしょうか。

賢治の遺言…『銀河鉄道の夜』 [思うこと]

賢治が死ぬ間際まで手入れを続けた『銀河鉄道の夜』。

ジョバンニが賢治なら、カムパネルラは誰か、というのは
これまでもいろいろ言われてきたことで
川で溺れたり病気で亡くなった同級生など、
おそらく何人ものひとの複合体であろうと思われますが
そのもっとも代表的な二人が、妹トシと心友・保阪嘉内でしょう。

ジョバンニは時に、賢治であり嘉内ではないでしょうか。
というのも、冒頭の孤独なジョバンニの姿が
一人退学処分になった嘉内の姿とも重なります。

途中で突然消えてしまうカムパネルラは
賢治が27歳の時に病で亡くなったトシともいえますし
そのことは何の違和感もありませんが
電信柱や異性への嫉妬などのエピソードは
嘉内との関係とも合致するので、嘉内でもあるということです。

「おっかさんはぼくをゆるして下さるだらうか。」という台詞。
おっかさんは後で銀河鉄道の窓から立っているのが見え、
カムパネルラはその直後消えてしまうのです。
すでに亡くなっている、…つまり、
カムパネルラが賢治であるなら、「おっかさん」はトシ。
カムパネルラが嘉内であるなら、文字通り退学処分の後追い打ちをかけるように亡くなった母。

「おっかさんが、ほんたうに幸せになるなら、どんなことでもする…」
やはり賢治のトシへの想いであり
嘉内の母への想い。

双子のような、一心同体のようなジョバンニとカムパネルラ。
アルビレオのようにくるくると入れ替わるふたり。

しかし、そんなことを考えていたらふと
いくら物語のなかであっても、友人を重ねた人物を死なせてしまうだろうか、
という疑問が浮かびました。


『グスコーブドリの伝記』が載った「児童文学」を嘉内に送ったのは
昭和7年の3月~6月の間と思われます(6月頃、長男・善三の病床で嘉内が読み聞かせた)。

すでに賢治は『春と修羅』と『注文の多い料理店』を嘉内に送っています。
ということは、同じように『銀河鉄道の夜』も、完成した暁には
嘉内に見せるつもりだったのではないでしょうか。

最後に死んでしまうカムパネルラは、
賢治のほうだ!
(賢治は嘉内を死なせたりしない!)

「私のいのちもあと十五年はあるまい」と河本緑石に書き送ったのは大正7年7月。
それ以来賢治の胸から、残された時間のことが頭から離れることはなかったでしょう。

そして『銀河鉄道の夜』を書き続けた晩年、
自分のほうが先に死ぬことは
重々承知の上。
(嘉内がまさか自分の4年後に亡くなるとは夢にも思っていないはずです)

賢治はこの物語を書くことで
嘉内に想いを託したかったのではないでしょうか。
遺言のつもりで書いたのではないかという気がしてしかたがありません。

「私が死んで、ひとりになっても、どうか淋しがらないでください。
ジョバンニのように、どんな暗のなかでも、けっして怖がらずに
みんなのほんたうのさいはいをさがしに行ってください。
岩手山でふたり見た銀河、
南の地平線の上でけむるその右で輝いていた蠍の赤い星を忘れない限り、
どこまでもどこまでも、私達は一緒です」と。

伊勢初詣 [思うこと]

「賢治の伊勢参り」番外編を書こうと思いつつ
年が明けてしまいました。

昨年は拙ブログを見て下さって
ありがとうございました。
また、昨年はこれまでにもまして新しい出会いもたくさんあり
いろいろなところでお世話になった方々には
感謝でいっぱいの昨年でした。

今年もどうぞよろしくお願いします。


さて、毎年お正月には私の実家に帰省し
伊勢神宮内宮に初詣に出かけるのが恒例です。
今年も2日の朝行ってきました。

県営アリーナに車を駐車すれば
パーク&ライドでバスで内宮前まで連れて行ってくれます。
バス専用レーンが儲けてあるので自家用車の渋滞を尻目にスムーズ。
次々にバスが巡回しているので行きも帰りも
それほど待つこともありません。

内宮の第一の鳥居をくぐり、宇治橋を渡ればもうそこからは
どんなに人であふれかえっていようとも別世界の空気。
杉の巨木が立ち並ぶ玉砂利の参道を新たな気持ちで歩くのは清々しい。
今年は風もなく暖かで、じつに参拝日和でした。
IMG_2428.JPG

鳥居からまもなくの右側は広く開いた広場のような土地になっていて
きっとここが例の記念品の置かれていた場所ではないかと思いながら進みました。

その後、手洗場、そして写真は五十鈴川。
ここでも手を洗う人が多いです。
IMG_2430-2.jpg

第一の鳥居をくぐったのが9時25分ころ。
人混みに紛れてゆっくり行って参拝し
帰り道の途中で甘酒を頂いて一息ついて
また第一の鳥居まで戻って来たのが10時10分。
内宮参拝に要した時間は約45分でした。
IMG_2431.JPG

ということで、賢治達もやはり
そのくらいの時間で参拝できたことと思います。

この秋には遷宮を控え
神宮周辺に活気のある昨今。
おはらい町・おかげ横町も毎回人でいっぱい。
赤福を頂いて、土産屋などを冷やかしてから帰りました。
今回はお昼には早かったので
伊勢うどんは食べずに帰って来てしまいました。

外宮周辺もかつての賑わいを取り戻している由の新聞記事に
嬉しくもあり、また次の機会には出かけてみようと思います。

番外編は近々の予定。

賢治とトシ(迷いと証明)~『賢治の北斗七星』から2 [思うこと]

1.旅立ち

保阪嘉内との衝突の後、
賢治は深く自分をみつめ直したのだろうということを前回の記事で書きました。
わだかまりを残しては真の反省・改心はあり得ないと思います。

「ありのままの姿で生き、そこから何かをつかんでいくことへの覚悟」
と書きましたが、賢治が保阪嘉内という鏡を通して見た自分の姿は
「修羅」ではなかったでしょうか。

我に返って信仰を見直したとき
法華経、日蓮、国柱会に対しての迷いが生じたのだと思います。
信じてはいるが、他人に「これのみが正しい」と言い切ることができなくなったのです。
それはきっと信仰を心のよりどころにしていた賢治には
たいへんなことだっただろうと思います。

家出し上京していた賢治は、トシの病気の再発により花巻に戻り
農学校の教師の職を得て、新しい生活に入りましたが
心の深い部分においても新たな自己の道への旅立ちをしたのです。
詩集『春と修羅』の一作目『屈折率』は、
その第一歩を踏み出した賢治の心境かと思われます。


2.トシ

さて、トシと賢治の関係、信仰を考えてみます。
トシは日本女子大で成瀬仁蔵校長の影響のもと、
キリスト教やタゴール、メーテルリンク、エマソンの思想に触れています。
在学中、兄とは頻繁に書簡のやりとりをしていたことからも
少なからず賢治にもその影響があったであろうと推測できると思います。
そして彼女の信仰は、兄賢治のように、「何が何でも法華経」ではなく

宗派や宗教の違いをこえた宇宙の根本生命への信仰によって人びとは結ばれ、世界平和も実現する (『賢治の北斗七星』)

というものでした。
トシにとって大切だったのは、ひとつの宗教を選びとることではなく
「自分と宇宙との正しい関係」(トシ『自省録』)を得ることだったのではないでしょうか。 
     (※これらのことは山根知子著『宮沢賢治 妹トシの拓いた道』に詳しい)

トシの死後、賢治は数々の挽歌で彼女の“行方”を安じています。
それは恐らく、法華経以外は邪宗であり、
信じないものは地獄に堕ちると説いた日蓮の影響だと思いますが
トシが法華経のみを信じていたわけではないことを
賢治自身がよく知っていたからではないでしょうか。
もしかしたら生前、トシが自分の宗教観を話し
賢治と多少たりとも議論になったこともあるのかもしれません。
一般にトシも賢治と同じ法華経を信じていたように言われていますが
それは詩『無声慟哭』の「信仰を一つにするたつたひとりのみちづれのわたくし」
というフレーズからでしょうが、
「一つにする」というのは同じ宗教を信じるということではなく
お互いに理解しあおうとする、話し合える、という意味ではないのでしょうか。
トシが自身の本当の考えを話せる相手は、
兄・賢治しかいなかったということなのではないかと思います。

臨終の床で、ひとり旅立とうとしている妹に、
頼みの兄であるはずの賢治は、
この道が間違いないんだ、法華経さえ信じていればいいんだと
はっきり言いきってやることができなかったのです。
なぜなら自分自身も迷いの底にいるのだから。

  ただわたくしはそれをいま言へないのだ

      (わたくしは修羅をあるいてゐるのだから)  (『無声慟哭』)


賢治の哀しみが深いのは
大切な妹を導いてやることができなかったからではないでしょうか。
『永訣の朝』の「Ora Orade Shitori egumo」(あたしはあたしでひとりいきます )
というトシの言葉は
「私は私の信ずる道を行きます」ともとれないこともありません。
賢治は、トシにどれだけついて行ってやりたかったか、
たとえトシの行く先が地獄のような所であっても!
「わたくしにいつしよに行けとたのんでくれ
 泣いてわたくしにさう言つてくれ」(『松の針』)
という賢治の叫びが記されています。

賢治自身に迷いがなければ恐らく
「法華経を、日蓮聖人を信じていれば大丈夫だよ」というはずでしょう。
そして賢治自身も何も不安に思うことはないでしょう。
賢治には妹の耳元で、お題目を唱えてやることしかできなかったのです。

「嘉内とトシ、二人の大切な人にさえ
正しい道(宗教)を証明して見せることも俺にはできないのか。
賢治の深い悲しみと怒り、すなわち修羅とはそういうことではないでしょうか。
  《ヘツケル博士!
   わたくしがそのありがたい証明の
   任にあたつてもよろしうございます》(『青森挽歌』))

賢治がさがしに行きたかったのは
ジョバンニがカムパネルラとはぐれて求めたかったものと同じ。
正しい考えを「証明」すれば
誰もがみな幸せになれるはず…。

そして、宗教が目的ではなく、みんなのほんとうの幸いであり、
宗教はその手だての一つにすぎないことに
長い時間をかけて気づいていった、その変容の集大成が
『銀河鉄道の夜』なのではないでしょうか。


3.まとめ

嘉内との衝突によって
目が覚めた賢治は、迷いを解消し法華経が正しいことを証明しようと
新しい旅立ちをした。
賢治はその迷いの跡、証明にいたる道筋を
心象スケッチという方法で描き記すことをした。
ところが一年余りで、正しい道を示してやることもできないまま、
最愛の妹・トシはたった一人で逝ってしまった。

いっそうの苦悩をさらけ出してまで克明に記したのは何故か、
一番に見せたかったのは、嘉内ではなかったか。
己が「ひとりの修羅」でしかないと悟ったことを
嘉内に差し出したのではないか。
あるいは、失われたその後の書簡には
それらのことが綴られていたのかもしれないが。

自分の心が歩む道を赤裸々に伝えることは
お互いに相手を信頼し、尊敬しあって、共に歩む気持ちでなければできないこと。
もし、わだかまりがあったり本心では訣別しているような関係になってしまったなら、
かつて苦楽を共にし、心を打ち明けあい、
手に取るように相手の想いを分かり合えるような関係だった相手には、
とてもそのようなスケッチ=詩集『春と修羅』など
送る気持ちにはなれないはず。

賢治は、保阪嘉内とトシ、愛し尊敬し大切に思っていたふたりとの関わりによって
自己に向き合い、その真っ暗な深淵に飛び込んでいく力を得て
どこまでも突き進んでいったのだと思います。


〈おまけ〉

トシが日本女子大に入ったのは
大正4年、賢治が盛岡高等農林に入った年と同じです。
賢治の進学にあれほど難色を示していた父が、
妹トシに対しては上京してまでの進学をすんなり許したのは
彼女が才女だったためだけではなく、
その数ヶ月前に起きた恋愛がらみの中傷事件によるものであったことが、
末妹クニの長男・宮沢淳郎の『伯父は賢治』によって明らかにされました。
それに収録されたトシの綴った『自省録』には、
彼女の深い後悔と苦しみが刻まれています。

トシは才女で、非の打ち所のない立派な女性だったといわれてきて
しかも熱心な法華経信者だったとされてきた年月は長い。

彼女の姿を側で見てきた賢治だからこそ
なおさらトシの死を悼み、救ってやりたい、天上に生まれかわらせてやりたいとの思いは
いっそう深かったのだと思います。

賢治にせよ、トシにせよ、
あまりに理想像を創りあげてしまうと、見えなくなってしまうものが多いのではありませんか。
そしてそれは、賢治やトシの真の心を汲み取ることを遮断してしまいます。

嘉内に対しても言えることで
ふたりの友情の在り方を見誤ってしまうと
その後の賢治の誠実や生き様をも見誤り、
真摯に精一杯生きた彼らの道のりを知ることで得られるはずの
最も美しく大切なものを捨ててしまうことに他ならないと思います。

賢治と嘉内の関係(自省と決意)~『賢治の北斗七星』から [思うこと]

「嘉内は、親交、対立、離別、そして心友としての尊敬の回復という友情のドラマを通して、賢治の人間的・思想的成長に、決定的にかかわった人です。」

こう三上さんが書かれているとおり
賢治は保阪嘉内から生涯大きな影響を受けたのだと思っています。
そして宮澤賢治という人を深く理解しようとするとき
保阪嘉内のことを抜きにしては考えられないとも。

盛岡高等農林卒業後の四年間が、
賢治にとっては最も暗く苦しい時期でした。

苦悩と先の見えない暗闇のなかで、賢治の支えは法華経であり、
共に同じ道を進もうと誓い合った友への切実な望みは
信仰も同じくすることでした。

父との衝突が増えるほど
「いっそう激しい苦悩、ときには絶望、そしてその反動としての狂信、嘉内への信仰の強要、懇願・哀願」 が強くなっていきます。

ところが、家出・上京した賢治に待っていたのは
賢治の期待に反した
決定的な嘉内の拒絶でした。

大正10年7月18日がその日だと言われています。
そして、それが二人の訣別だと。
それは絶交のニュアンスを含み、その後は形の上だけの交際かのように
されてきたのではないでしょうか。

ある時から、私はこのことに疑問をもってきましたが
この本を読み、さらにそうではないのでは、という思いを強くしました。

このファナティックな信仰、相手の魂の救済という善意があるにせよ、嘉内に対して見せた激しい強要、それに応じなかった嘉内の矜持、賢治は七月から八月の悲嘆の一月のなかで、自分の信仰を他人の魂の内部にまで乱暴にふみ入って強要することへの誤りに、深く深く気づいたのでしょう。これは賢治の生涯と思想の展開をみれば、あきらかだと思います。

賢治は二一年夏の一ヶ月間に、みずからが行った嘉内への人間的非礼を恥じ、信仰を強要することの誤りをさとり、他の信仰や価値観への寛容ということに目ざめていったのでしょう。

…そうだ、そうに違いない。
わかっていたようで、わかってなかった。
かたくなに、自分だけが正しくて他人は間違っていると思い続けていたのだとしたら
こんなに愚かなことはない。
賢治がもし、いつまでも心にわだかまりを持ったまま
嘉内に歩み寄ることをしなかったのだとしたら
そんな人間は、傲慢で、独りよがりでわからずや、ということだ…

賢治は、「こんな事では一人の心をも理解し兼ねると思って」(書簡197)
(おそらく泣きながら?)肉を口にし、深く深く考えたのでしょう。
結局肉食をしたってわからなかったかもしれませんが。
「文壇という脚気みたいなもの」(同)という言葉のうしろには
自分を見つめることをおろそかにし、他人に“形”を強要したことへの
反省がみえるような気がしますが、どうでしょうか。


花巻に帰り、農学校の教師となった賢治が
12月頃に出した嘉内あて書簡199には
「何からかにからすっかり下等になりました。(中略)けれどもそれが人間なのなら私はその下等な人間になりまする。」
とあります。
ここには、地に足の着かない理想ばかり思い描いていたプライド高い人間から、
しっかりと自分をみつめる人間へと変わった賢治がいます。
ありのままの姿で生き、そこから何かをつかんでいくことへの覚悟が
現れているように思えてなりません。

「春になったらいらっしゃいませんか」
…私はもう、あの以前の私ではありませんから…

そしてそれゆえに
その後の二人の交際も元のように
あるいはそれ以上に、深く信頼あるものになっていったに違いないと確信します。

嘉内に拒絶されたあの日から賢治は、
盲信的・狂信的だった法華経を根本から見つめ直し、
外側に向いていたその目を
自分自身の内側へと向ける覚悟と勇気を持ったのではないでしょうか。

その延長上に妹トシとの関わりが絡んでくると思いますが
それはまた次回の記事へ。

※太字は『賢治の北斗七星』(三上満)の抜粋です

震災と嘉内 [思うこと]

震災から一年。

3.11にと書き始めた記事なのに
もう10日以上経ってしまいました。

この一年、ボランティアや自衛隊の方々の
被災地での活躍を見聞きするたび頭に浮かんだことがあります。

大正12年9月、関東大震災の折に
保阪嘉内がとった行動です。

保阪庸夫さんの文章に
その時の様子を書かれた部分があります。
まだ活字になっていないものですが
了承を頂くことができたので掲載します。

 『畧説 賢治と嘉内(一)』(抜粋)

 大正一二年九月一日、午、大音響と不思議な晦冥がひろがり四囲の山々がどよめいた。関東大震災の瞬間である。嘉内はとっさに、傍に居た末妹、静枝を抱き、中庭へと飛び出す。家も木々も空気も川水も、耳にきこえぬ高い響きを放ってふるえている。藍青のジグラットのように南天にそびえる富士が鈍色めき、東へ東へと流れるはずの千切れ雲が、かなりの速度で西へ駆ける。雀、椋鳥、山鳩にまじって何羽もの鳥の群が北へ西へと翔る。普段はみなれない大型の白、茶、黒の鳥の群も列をなして、騒然たる天、懐の静枝もキョトンとした目つきで空を眺めていた。
 後の妻、佐藤さかゑは、柱時計を見上げながら、背なの末弟に子守唄をうたっていた。韮崎より東京に近い東山梨群岩手村の生家である。柱時計が赤ん坊の頭をかすめて落ち、大屋根、中屋根、小屋根がうめききしんだ。確かに柱も壁も泣くのがきこえた。冬のように冷たい山颪しが裏山から寄せ、居間裏の小池の水面が斜めになったままだった。
 午後になって、東京横浜を中心とする関東地震の噂さが国なか地方にもとどいた。折から三妹のきのえは東京青山に居る。甲府の女学校を了えると、教師資格を得るために実践女学園に進んだのだ。
 嘉内は急遽、軍装をととのえて谷村町へ向かった。大月など郡内地方は、かなりの被害で人死にも出た、という風聞が入った。谷村は、つい先頃まで桂川電気で地質町瀬の根 據地としていた所。知人も多い。特に定宿「焙烙屋」の主人は退役陸軍軍曹で、小さな運送屋も兼ね、駄馬二,三匹を飼っているので嘉内輜重兵とは話も合う。
 中央線は運行が乱れ、やがて大月以東は一時運休となった。顔や姿のすすけた焼けだされや、あちこち包帯したケガ人が三々五々、避難してくる。もう晩夏とはいえ、日の落ちた頃である。惨怚たる人々はデマや臆説を携えて来た。「主義者が暴動をおこした」「半島出身者が焼きうちや掠奪をして回っている」といったたぐいの噂だ。
 嘉内と焙烙屋は荷馬車索きを中心に十名余の若者を集めて「関東救援隊」を組織する。手当り次第に勢揃いしたのは翌二日の夕方だ。とにかく笹子も小仏も越えて、まず八王子へ。三台の駄車には手綱取り一人、後番二人、先頭と後尾には、替え馬に乗った予備少尉殿と退役軍人殿。他に交代要員三,四名で計十五名ほどの仲間となった。後尾車から荷をほどいて、空になった車馬は大月へ戻る。甲州街道は高井戸あたりで荷がつきる。嘉内は残物を自分で用意して来たものと一緒に背負子につけて一荷とし、片手に杖のいでたちで焙烙屋と馬たちに別れた。
本当に徒歩となったのは此処からである。北沢から駒場をすぎて渋谷、青山と、輜重大隊時代におなじみの道だ。焼け跡。くすぶっている半壊、全壊の家。呆然と座り込んでいる人の傍らでは、何かを懸命に探す者。ピクリとも動かぬ老人。泣いている女。子供が何かをしきりに食べているが、煤けた頬と鼻の下に四本の白条がクッキリと目立つ。小さなキャラメルの箱を渡しながら、よく見ると涙と鼻水の跡だった。皆にいろいろ分けてやりたいが、妹のところへ一刻でも早くつきたい。嘉内は義侠心と家族愛との板挟みである。まるで歌舞伎の一場面だな、などと無理やり自分の感情を茶化して道を急いだ。見おぼえのある実践学園も大分荒れている。もう少しで、この辛い道行も一先ず終わる。もう九月三日の夕方である。
 宿の面会室に入ると蒼白い顔のきのえが現れる。兄と妹は自然と抱き合う。細い肩がふるえて、声をころして泣くと、兄もつい涙ぐむ。「兄さんの身体は暖かくて広くて、お母さんに抱っこしているようだった。」「兄さんの汗も涙も甘い味がした。」「お土産の粉ミルクや練りミルクは、ずっと後まで一日にひとなめずつした。なくなるのが惜しかった。」「いろいろの品物をくれたが、新品の下着は、どこで用意したのか。最新流行のワンピースの洋服には一番おどろいた。裾が少し短めなのが恥かしかったけれど。」長い年月の間に聞き出した叔母の追想である。

物資を集めるのに苦労したことや、
少しずつ配りながら行ったら皆さん涙を流して喜んだことなども
保阪庸夫さんが教えてくれました。

肉親の身を案じそのもとへと急ぐとき、
私なら取るものも取りあえず
家族のことしか頭にないと思います。

嘉内の機転と行動力。
万分の一でも見習いたいと思いますが
震災後一年経ってもまだ
私は何も出来ないでいます。

今年もよろしくお願いします [思うこと]

新しい一年の始まりです。
今年もどうぞよろしくお願いします。

昨年はいろんな出来事やたくさんの出会いがありました。
お世話になった皆様、ほんとうにありがとうございました。

今年もまた新たな目標ができたので、
それに向かって一歩ずつ前進していきたいと思います。

そして今年こそは岩手に行きます!
友達と東京の憧れの君のライブにも行く。
ウクレレももうちょっと上手くなりたい。
あれもこれもしたいと相変わらず欲張りです。

よい一年でありますように!


元日に私の実家に帰省、
2日に伊勢神宮に初詣に行きました。

伊勢1.jpg

伊勢2.jpg

伊勢3.jpgおはらい町も混雑

伊勢4.jpg伊勢うどん

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