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文語詩「隅田川」 [詩]

賢治の文語詩に「隅田川」というのがあります。

 水はよどみて日はけぶり
 桜は青き 夢の列(つら)
 汝(な)は酔ひ痴(し)れてうちおどる
 泥州の上に うちおどる

 母をはるけき なが弟子は
 酔はずさびしく そらを見る
 その芦生への 芦に立ち
 ましろきそらを ひとり見る

この文語詩のもとになったのが
東京」と題された短歌7首で、そのうちの3首。

 青木青木はるか千住の白きそらをになひて雨にうちよどむかも。

 雲ひくく 桜は青き夢の列 汝は酔ひしれて泥州にをどり。

 汝が弟子は酔はずさびしく芦原にましろきそらをながめたつかも

汝とは恩師関教授のことで、
「母をはるけき」が下書稿では「甲斐よりきたる」とあることから
弟子とは保阪嘉内のことではないかとされ、
つまりは3人で花見をしたのではないかという推測です。
以前は私もそのように思っていました。

しかし、最近ではちょっと違うように思えてきました。

大正10年4月、賢治は家出中。
上京してきた父と二人で関西方面に旅行に出かけ、
東京に戻ってからすぐにこれらの短歌を作りました。

上野駅で父を見送った後、大都会東京でまたひとりぼっちになった賢治の
心細く淋しい心情を歌ったものだと思うようになりました。

「千住」が東北方面を意味する※ならば
「はるか千住」とは故郷に帰っていった父のことではないでしょうか。

そして上野駅から自分の下宿への帰り道、
あるいは下宿から国柱会への通い道、
東京=泥州の街で喧噪に浮かれる人々をみて
ちょうどその頃見頃を迎えていた桜の花見にたとえて
うちおどると歌ったのではないでしょうか。

「母をはるけき」の部分の下書き稿の変化については
「甲斐であれ越であれ、それは故郷を意味する」とする
大角修氏の説にはうなずけます。
そして「なが弟子」とは、法華経信者である自分=賢治のこと。
つまりは最初の「汝」と2番目の「な(汝)」とは違うのだと思います。

ある種の希望を持って家を飛び出してきたものの
友もおらず、国柱会の人々ともなじめない。
大都会の真ん中で、ひとりさびしくそらを見る賢治の孤独は
一人故郷へ帰っていく父を見送った直後だからこそ
いっそうきわだった心情ではなかったでしょうか。

    
      ※大角修著『「宮澤賢治」の誕生』P178


四本の銀ドロ [詩]

三三三
     遠足統率
                  一九二五、五、七、


   もうご自由に
   ゆっくりごらんくださいと
   大ていそんなところです
       そこには四本巨きな白楊(ドロ)が
       かがやかに日を分劃し
       わづかに風にゆれながら
       ぶつぶつ硫黄の粒を噴く
   前にはいちいち案内もだし
   博物館もありましたし
   ひじゃうに待遇したもんですが
   まい年どしどし押しかける
   みんなはまるで無表情
   向ふにしてもたまらんですな
       せいせいと東北東の風がふいて
       イーハトーヴの死火山は
       斧劈の皺を示してかすみ
       禾草がいちめんぎらぎらひかる
   いつかも騎兵の斥候が
   秣畑をあるいたので
   誰かゞちょっととがめたら
   その次の日か一旅団
   もうのしのしとやってきて
   大演習をしたさうです
       鶯がないて
       花樹はときいろの焔をあげ
       から松の一聯隊は
       青く荒さんではるかに消える
   えゝもうけしきはいゝとこですが
   冬に空気が乾くので
   健康地ではないさうです
   中学校の寄宿舎へ
   ここから三人来てゐましたが
   こどものときの肺炎で
   みな演説をしませんでした
       七つ森ではつゝどりどもが
       いまごろ寝ぼけた機関銃
       こんどは一ぴき鶯が
       青い折線のグラフをつくる
   あゝやって来たやっぱりひとり
   まあご随意といふ方らしい
   あ誰だ
   電線へ石投げたのは
       くらい羊舎のなかからは
       顔ぢゅう針のささったやうな
       巨きな犬がうなってくるし
       井戸では紺の滑車が軋り
       蜜蜂がまたぐゎんぐゎん鳴る
        (イーハトーヴの死火山よ
         その水いろとかゞやく銀との襞をおさめよ)

               ※

この詩は、『春と修羅第二集』に納められるはずだったもので、
小岩井農場に農学校の生徒達と遠足に行ったときの情景だと思われます。

賢治が銀ドロの木が好きだったことは有名ですね。
初めにこの木が好きだったのは、保阪嘉内の方かもしれません。
ドロノキ(銀ドロ)を詠んだ短歌があります。

 
  どろの木は三本立ちて鈍銀(にぶぎん)の空に向へり 女はたらき
  三本のどろの木に出て幹に入る鈍銀の空鈍銀の空

        (『アザリア』第一号「六月草原篇」より)


「遠足統率」と嘉内の短歌、
どちらも小岩井農場に立っていた同じ木の事だと思われます。
(このことに詳しいのは『宮沢賢治の詩の世界』
『「どろの木」と「銀どろ」(1)』『「どろの木」と「銀どろ」(2)』です。)

賢治は「遠足統率」で、ドロノキを四本といい
嘉内は短歌で三本と歌った、それはなぜでしょう。

賢治と嘉内どちらかの記憶違いでしょうか。
それもあり得ますが
嘉内が詠んだのは実際にその木を見た直後か、間もない時でしょうから
記憶違いとすれば賢治の方…?
でも、実際、この遠足の時にも
この木は立っていた可能性の方が強いのではないでしょうか。
とすれば、賢治は、三本のドロノキを
なぜ四本というのでしょう。

私は、賢治がその景色のなかに
「馬鹿旅行」のあの頃の自分たちの姿を見ていたからではないかと思うのです。
つまり「四本巨きな白楊(ドロ)」とは、アザリアの中心だった四人のこと。

この詩の最後の方には
「巨きな犬がうなってくるし 」というのも出てきます。
夜明けの頃に犬に吠えられ
驚いて逃げたのはまさに1917(大正6)年7月、
アザリア第一号の合評会を行った後、
秋田街道を夜通し歩いた「馬鹿旅行」の時です。

更にその一週間後、賢治と嘉内は二人きりで
岩手山に登り、「銀河の誓い」をします。
このことは二人のその後の生き方に
大きな影響を与えました。

賢治は、思い出の場所に、生徒達と遠足に来て
かつての自分達、強いていえば保阪嘉内のことを
思い浮かべていたのだと私は思います。

ほかのひとと一緒に行くことを断ち切り、
たったひとりで生きていくことを決めた賢治。
それでもやっぱり、いつも賢治の心にあったのは
楽しく輝やいた日々、生き方の原点ともなった
「アザリア」の友との絆のことだったのではないかと私は思います。


「一本木野」について [詩]

一本木野
  

   松がいきなり明るくなつて

   のはらがぱつとひらければ

   かぎりなくかぎりなくかれくさは日に燃え

   電信ばしらはやさしく白い碍子をつらね

   ベーリング市までつづくとおもはれる

   すみわたる海蒼(かいさう)の天と

   きよめられるひとのねがひ

   からまつはふたたびわかやいで萌え

   幻聴の透明なひばり

   七時雨(ななしぐれ)の青い起伏は

   また心象のなかにも起伏し

   ひとむらのやなぎ木立は

   ボルガのきしのそのやなぎ

   天椀(てんわん)の孔雀石にひそまり

   薬師岱赭(やくしたいしや)のきびしくするどいもりあがり

   火口の雪はごと刻み

   くらかけのびんかんな稜は

   青ぞらに星雲をあげる

      (おい かしは

       てめいのあだなを

       やまのたばこの木つていふつてのはほんたうか)

   こんなあかるい穹窿(きうりう)と草を

   はんにちゆつくりあるくことは

   いつたいなんといふおんけいだらう

   わたくしはそれをはりつけとでもとりかへる

   こひびととひとめみることでさへさうでないか

      (おい やまのたばこの木

       あんまりヘんなおどりをやると

       未来派だつていはれるぜ)

   わたくしは森やのはらのこひびと

   芦(よし)のあひだをがさがさ行けば

   つつましく折られたみどりいろの通信は

   いつかぽけつとにはいつてゐるし

   はやしのくらいとこをあるいてゐると

   三日月(みかづき)がたのくちびるのあとで

   肱やずぼんがいつぱいになる


『春と修羅』第一集におさめられたこの詩を
私が初めて読んだのは、高校生2年の時でした。

賢治に関する知識もほとんど無く
地名も知らないため、具体的な場所を思い浮かべることもないまま
只単に、詩を味わっていただけでしたが
柏に対して賢治が言う言葉、
(おい やまのたばこの木 あんまりヘんなおどりをやると 未来派だつていはれるぜ)
お気に入りでした。
風に大きく揺れる樹木は、まさにへんな未来派の踊り!
こんな表現になぜかどきどきしたものです。

そして何よりこの詩の最後の部分は
まだ若い私の心を捉えて離さなかったのです。

この詩人は、「こんなあかるい穹窿と草を はんにちゆつくりあるくこと」を
「はりつけとでもとりかえる」という。
自然のなかにいて、それらと交流することが
それほどのものだということを私に教えたのです。
実際に、私は、当時抱いていた、誰にも言えない悩みや孤独を
自然のなかで癒すことを覚えました。

さらに詩人はそれを「こひびととひとめあうことでさえ」同じだという。
恋人と一目会うこと=自然の恩恵をもらうこと、
つまり自然は恋人であると、言うのです。

つまり私にとっても自然は恋人…と思ってしまいました。
いや、そのように私に教えた賢治が、イコール自然となってしまったのです。
今はもうこの世にはいない賢治が、
風や木や光といったあらゆる自然のなかにとけ込んでいて
それが私の恋人だと思えてならなかった。

「わたくしは森やのはらのこひびと」
と賢治がいうとき
現代の私もまた、自分は森やのはらの恋人だと感じていた。
そう思うことで
私は詩人と交感していたのです。

オトシブミの小さな丸められた葉っぱを
恋人からの通信といい、
衣服にくっついてくる植物の種を
三日月型のくちびるのあとだという。

そのあまりのロマンス&エロスに
私の純真な心は(???)、完璧にノックアウトされたのです。

読んだ本の影響もあって
当時は賢治を真剣に童貞と信じて疑わなかったけれど
今ではまさかそんなこともあるまいとも思い
でも、そんなことはどうでもいいこととも思え
ある程度は、等身大の、でも偉大な賢治の姿を
捉えられるようにはなったかなとは思っていますが
それでも、やっぱり
賢治に対する想いは
当時とあまり変わっていない…

どころか
ますます酷いのかも知れません。

つまりは
賢治はやっぱり
私にとっては永遠のこひびと。

なのです。

さて、こんなことを白状したところで
どうなるものか…?

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