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口語詩 マイ リトル ブラザー ジローズ ジョン [保阪嘉内]

10月の「碑前祭」で金田賢一さんが朗読してくださった作品、
保阪嘉内の口語詩『マイ リトル ブラザー ジローズ ジョン』。

ずいぶん前に、アザリア記念会の向山三樹事務局長より送って頂いていたのに
掲載が遅くなってしまいました。
まことにすみません~。

kanai.jpg

口語詩
マイ リトル ブラザー ジローズ ジョン  1915年8月2日

解説
この詩は1915年(大正4年)8月2日の作 嘉内は 甲府中学を卒業し家業を手伝いながら受験浪人中 19歳
当時は妹4人 千代17歳 こと14歳 きのえ11歳 八重7歳 弟 次郎3歳 がいた。文中のジローの名前は弟からとった。
『カチューシャの唄』(カチューシャのうた)は、1914年(大正3年)に発表された日本の歌謡曲、ならびに同楽曲を題材にした同年製作・公開の日本の短篇映画である。
楽曲の作詞は島村抱月と相馬御風、作曲は中山晋平。劇団芸術座の第3回目の公演であるトルストイ原作『復活』の劇中歌として、主演女優の松井須磨子などが歌唱した。翌年の1915年(大正4年)には『復活唱歌』の題名で、松井の歌唱によるレコードが発売された。歌詞の「カチューシャかわいや わかれのつらさ」は爆発的な流行語となった。

口語詩
マイ リトル ブラザー ジローズ ジョン


              嘉内作 2575.8,2(注 西暦1915年8月2日)

私がお友達のとこから
帰ってきた 夕方だっけ
JOHNよ、お前が居たのは
私の三番目の妹が
「兄さん こりゃ車屋の 勝ちゃんからもらったので 小さい男の犬だ」
と言って お前を見せたっけ
私の三番目の妹が 「兄さん こりゃ車屋の 勝ちゃんからもらったので」
と言って おまえに見せたっけ

私が帰ったときに 二番目の妹は ジョンよお前に名前がなかったから
ポチと名前を名づけたと云った

しかしジョンよ わたしはポチがきらいだ
それは いやしい犬を連想するからだ

それで私は考えた お前の名前について考えた
そしてジョンよ ジョンが一番よかろうと 云うので
それからジョンとお前をよぶことにした

お前はまだもらってから 二日ばかりしかたたないのだ
それだが よく お前は大勢になついた
ジョン!!と呼べば来るように 私にも弟にも妹にも お前はよくなついた

お前は尾を棹って(ふって)飛んできた お前はえさをやればみんな食べた
お前は足や手にざれついた

お前はほんとによい犬だ 褐色の毛のふさふさした
他の犬に似ず いい犬だほんとに!

一番目の妹が お前があんまり可愛い(いとしい)から
桃色のメリンスで 首にかける 紐を縫ってやった

弟がお前に小さい鈴をやった そんでもお前は「ありがとう」とも云わないで
泥の中で遊んで 紐も鈴も真っ黒にしてしまった
しかしジョン 私は かわいいお前をおこらない
お前は私の弟と遊ぶ 弟もお前も小さいから
飯時も忘れて 弟は裸足になって お前は真っ黒くなって

弟はお前の尾をひいたり 毛をひっぱったり つるしあげたり 口づけしたりする
お前はその時 弟のする通りに ざれついて遊ぶ
それでわたしの掃いた庭が 弟とお前の足跡で一杯になる
しかし私は弟をもお前をも 少しもおこらない どっちも可愛いから

それで私はお前を マイ ブラザーズ ジョンと云っているのさ
まったくお前は マイブラザー ジローズ ジョンだもの
それで家中だれも誰も みんなお前を可愛がっているのだ

今日私がお墓の草を取って帰ってくると
えーお墓というのは私たちのご先祖が住んでいる所なのだ
ジョンよお前も 父さん母さんそしてご先祖に 立派につかえにゃならんのだよジョンよ

そのお墓から帰ってくると お前はいつもの様に 尾を棹って(ふって)
私にざれついたっけね
私はお前が可愛いから 両手で抱き上げたっけねお前を
お前も喜んだね  その時には

しかし私はお前が知っているとおり臆病だからね
お前の毛が濡れているので びっくらして両手を つと(急にの意)離したらね
小さいお前だもの 私の手から台所に落ちて  さぞ痛かったんだろうねお前は
お前は仰向に倒れて苦しそうにしていたね
私は決して悪い気で お前を落としたんじゃないから お前も私をお許しだろうね

お前は五分も黙って 仰向いていたね
私は死んだんじゃないかと 実際悲しかったよ
その後お前は私の顔を二度にらんで(堪忍しておくれよジョン)
お前の家になっている凾(はこ)のある 裏の土蔵の方へ 
四つの足みんなで とても苦しそうに歩いて 這入って行ったね
私はお前が死んだんじゃないかと 実際悲しかったよ 
お前は暗いとこへ つとめて這入りたがるから
実際私は悲しかったよ
お前が死んだんぢゃないかと

死ぐ(死ぬの方言)時に其のしゃれこうべのありかを人に見せないと云うのは
お前の社会のMOTTOR(モットー)だそうだね
私はお前が暗い方へ行くから MOTTORを考え出して 非常に悲しんだよ
お前が死ぐ(死ぬ)んじゃないかと
お前もその時は苦しんだろう 私もその時は苦しんだ みんな私のあやまりから
しかし私は神に祈ったよ
お前は知るまいがね あのロシヤの近頃の 大きな文豪でね
ロシヤの文豪と云えば多いがね
クウプリンもアンドレエフも
チェホフもダッタ(ドフト)エフスキーも みんなえらいがもっとえらい
レオ(レフ) トルストイと云う人のねResurection(復活)と云う小説のね
女のヒロインのね カチュウシャと云うのね
其の人のことを日本の人が作った歌の詞のようにね
私は神にお前が死なないように願ったよ

私のお願いを神様もあわれと思いなさったんだろう
お前は又 鈴をふって 其の音の後から続いて かわいく歩いているからね
もう大丈夫 お前はもう大丈夫
今に私がね いい歌を教えてあげるから
道を行く人に聞いた つまらない歌を歌うでないよ

其のカチュウシャの歌と云うのはね
聞きたいならば歌おうね
さあ、これは一番だよ
「カチュウシャ可愛いや 別れのつらさ
 せめて泡雪とけぬ間に 神に願いをかけましょうか」
                        
 畢(おわる)

 翻刻 アザリア記念会 向山三樹

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新資料!嘉内宛書簡 [保阪嘉内]

韮崎の「保阪嘉内・宮沢賢治 アザリア記念会」で新資料が見つかり
「河本緑石研究会」のフェイス・ブックに続々とアップされていました。

まとめてリンクを貼っておきます。
こりゃすげー!

香川県の屋島のしゃもじハガキ  日付が大正15年1月7日

保阪嘉内宛河本緑石書簡① 大正14年8月7日(河本緑石宛保阪嘉内ハガキ大正15年8月15日消印から推定) 山梨県北巨摩郡駒井村 保阪嘉内様 7日 河本生 

保阪嘉内宛河本緑石書簡② 大正14年12月14日消印(鳥取県立農学校絵はがき) 甲州北巨摩郡駒井村 保坂(阪)嘉内様

保阪嘉内宛河本緑石書簡③ 大正15年1月3日消印 山梨懸北巨摩郡駒井村 保阪嘉内様

保阪嘉内宛河本緑石書簡④ 昭和7年12月26日付(芸伎のカラー絵はがき) 甲斐の国北巨麻(摩)郡駒井村 保阪嘉内様 七、十二、二六、 京都市烏丸通宮本宿官(旅館?)内 河本緑石 

保阪嘉内宛河本緑石書簡⑤ 昭和8年1月5日 東京市豊嶋区長崎東町三ノ八〇七 保坂(阪)嘉内様


保阪嘉内宛門前弘多書簡① 大正12年1月1日消印 山梨縣北巨摩郡駒井村 保阪嘉内殿

保阪嘉内宛門前弘多書簡② 大正12年9月30日消印 山梨縣北巨摩郡駒井村 保阪嘉内殿

まだまだ他にも、どこかにあるかもしれませんね。
賢治からの手紙も出てくるといいなぁ…



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「アザリア記念会」ホームページのお知らせ [保阪嘉内]

保阪嘉内の故郷・韮崎市の「アザリア記念会」のサイトが出来ました!

正確にいうとまだ作成中の部分あり…?
リンクができないところや画像がアップされていないところもありますが
素敵なホームページになりました。


「ここに互いの心を語り続けた友がいた・・・心友アザリアの仲間たち・・・」


イベントの紹介なども随時アップされていきますので
皆様どうぞよろしくお願いいたします~!
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嘉内は駄洒落好き [保阪嘉内]

保阪嘉内の歌稿に『文象花崗岩』というのがあります。
大正6年10月~12月にかけて編んだものです。

「ぶんしょうかこうがん」と読みますが
これが「文章書こう」にひっかけた駄洒落であることは
よく言われていることのようです。


先日、『河本緑石「アザリアの友へ」』という書簡集を手にする機会に恵まれました。
緑石に宛てた書簡の、原本のコピーが収められている本で、1997年発行。
おそらく、身内や一部の関係者、研究家などにしか渡っていないものかと思われます。

ここに収められている嘉内から緑石への書簡は9通。
そして、そのなかに面白いものを発見。

嘉内が勉学に燃え、女子に萌え、青春を謳歌していた盛岡高等農林学校。
大正7年3月、賢治は卒業し、いよいよ3年生に進級という時、
嘉内は突然の理由なき除名処分を受けたのです。
春休みで帰省していた嘉内は、賢治からの手紙によってこのことを知らされました。

そして次の手紙は、封筒が残っていないものの、内容から5月か6月頃と推測されるもので、
失意のなかにあっても再度学問を望み、受験のため東京に下宿していた時の手紙です。

前半は盛岡で妻と暮らしながら盛岡高等農林に通う緑石に
懐かしさと淋しさを訴える内容で、後半から引用。

昨日偶然に市村(仝君の処へは前に一度訪ねたり)市來、福地、来訪、盛岡回旧(※懐旧)の談はづみて、去にし日を忍ばんものと舒明会……蓋し盛岡高農除名を紀念するため、その音に依りて舒明とせしもの。除名、舒明、音相通ず、……を起し一宴を催し夜半相散り申し候。されど舒明より女迷とでも名けし方適当なりたるべし、呵々、その夜も盛岡の話し出でて心躍り申し候ひき。 (以下略)

除名されたことを「舒明会」と名付けて懐かしい友と飲み、
あるいは「女迷会」がいいか、と笑ってみせる。

賢治が送った手紙から想像される嘉内の様子とはまた違った顔が見える手紙です。
あるいは賢治に対しても、こんな感じの手紙だったのかも知れませんが
肝心のものが残っていないので、はたしてどうだったか。

大正8年のノートに残っている「藤井青年團々歌」には
「我健児(わがけんじ)」という歌詞があります。
これも「我がケンジ」と重ねたに違いないと、皆にっこりしてしまうところです。
この歌は実際に藤井青年団で歌われていました。

ほかにも嘉内の残したものを探せば
たくさん駄洒落が出てきそうな気がしますが
いずれぼちぼちと…。

この直後、母の死という不幸が追い打ちをかけ、
結局嘉内は進学を諦めることになります。

嘉内のハレー彗星 in 名古屋市科学館 [保阪嘉内]

5月3日、名古屋市科学館に行ってきました。

目的は話題のプラネタリウム!
  …といいたいところですが実は
賢治の心友・保阪嘉内が中学時代に描いた“ハレー彗星のスケッチ”。
5階「宇宙のすがた」展示室に常設展示されています。

展示の経緯は「緑いろの通信」3月27日の記事に詳しいです。

kanai.jpg
携帯カメラで写りが悪くてスミマセン)

「天文の世界では野尻抱影さんの本を読んでいないと叱られます」と、
案内して下さった科学館の毛利さんが仰っていましたが
その野尻抱影の教え子だった保阪嘉内が
抱影指導のもとに甲府中学の寄宿舎からハレー彗星を観測
描いたスケッチがこの一枚です。

それがまさか約100年後、貴重な資料ということで
このように展示されることになろうとは
描いた本人も夢にも思っていなかったことでしょう。

嘉内のスケッチ帳には他に山や風景や静物画など
素晴らしい作品が満載。
デザイン的なイラストもあって豊かな才能を感じます。


この3月にリニューアルオープンした科学館は非常に人気で
普段でも大変並ぶということでしたが
GWということもあってチケットを求める人が超長蛇の列。
後のほうの人はいったいいつになったら入れるかと気が遠くなりそう。

見に行きたくてもこんな状況なので
ほとぼりが冷めるは無理!とか思っていたのですが
アザリア記念会の向山事務局長から電話でお誘いを頂いて
保阪庸夫先生、向山さん、新村さんの一行に
私も同行させて頂くことになりました。有難いことでした。

30年ぶりに名古屋城も見ることができました。
(地元だとかえって行きません)
お食事やお茶、それからちょっと一杯も…w
半年ぶりにたくさんお話を伺って
楽しい一日を過ごさせて頂きました。

一人ずつ「ではまた」の握手をして改札を見送ったとき
胸がいっぱいになってしまいました。

いつも韮崎の人たちと接するときに感じるのはその温かさ。
いわばよそ者の私にもはじめからそのように接してくれたのは勿論、
たいした働きもできない私を
今では当然の一員のように扱ってくれる。
賢治と嘉内の事だけでなく
様々なことを教わっている気がします。

今年9月には韮崎市でまた大きなイベントもありそう。
賢治と嘉内の友情の絆が
またさらに新しい展開となって拡がることを
あらためて願います。

2月8日 [保阪嘉内]

「何を泣いているんだ。人は皆、こうして自然に還ってゆくのだ。」
といって保阪嘉内がこの世を去ったのは
昭和12年の今日、2月8日のことでした。

加倉井さんの「緑いろの通信」には
その日の美しい夜空(朝空?)が掲載されています。

前月には「若し此の病を克服できれば再度上京して研究を完成し、農村復興の資金を作る。その時はお互に頑張ろうではないか。」と友人に語ったという。
最後まで夢を持ち続けた嘉内。

一方、亡くなる日に「いずれあとで起きて書きます」と父に言った賢治。
あとで書きたかったものは、「遺言」のことではなかったと思います。

二人の想いを少しでも受け取って
自分を奮い立たせる力にすること。
また少しでもそれを誰かに伝えること。

それができればいいなぁと思います。

第3回・花園農村の碑「碑前祭」 [保阪嘉内]

10月16日(土)・17日(日)は山梨県の韮崎市に行ってきました。

東京エレクトロン韮崎文化ホールの前庭にて行われた
第3回目となる「保阪嘉内・宮沢賢治 花園農村の碑 碑前祭」に参加するためです。

韮崎には何度かお邪魔していますが
私が「碑前祭」に参加するのは初めてでした。

とは言っても、今回私はどちらかというと裏方のお手伝いをしていて
「碑前祭」は少し離れたところから見ていましたが…。

盛岡大学の望月善次先生の講演も、わかりやすくて面白いと好評でした。
賢治や嘉内にはあまり詳しくないと思われる一般の方もたくさんお見えでしたが、
そういう方々にも楽しんで少しでも何かを得ていただけたとしたら
ほんとうに嬉しいことです。

加倉井厚夫さんとも再びお目にかかれ、
なんとあの中野由貴さんも!
聞けば今年の賢治祭の時、大沢温泉にて
保阪庸夫氏とばったり会われてお話をされたとか。
さっそく遠くから韮崎に来てくださって、ほんとうにうれしいですね。

それから、京都から浜垣誠司さんもみえていました。
ツイッターでいつもお話しさせていただいているので
初めてお会いできて感激!

個人的にも、うれしい出会いと再会の一日でした。


韮崎の駅に降り立ち、その空気を吸うといつもなぜかほっとします。
帰ってきた、という感じさえするのです。
大好きな山々があるからでしょうか。
賢治の心友・嘉内の故郷だから…?
それだけではないことに気づきました、

自分のことより、
人に喜んでもらうことが楽しく大好きだという
そんな人たちがいるから。

そして、私もまた、
そのなかに混ぜてもらっていることは
なによりうれしく、幸せなことだと感じます。

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