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賢治の伊勢参り(2) [調べたこと]

大正10年4月、賢治と父政次郎はふたりで関西方面へ旅しました。
この年の1月、東京に家出した賢治のもとに父が様子を見に来て
そのままふたりで出かけることになったようです。
最初に向かったのは、賢治2回目の伊勢参りです。

新校本全集第十六巻(下)の年譜によれば
日程は「初旬」とだけ記されており
小倉豊文さんの推測は4日か5日(「旅における賢治」)、
しかし短歌による天候から推測すれば2日の夜出発したかもしれない、となっています。
『「宮沢賢治」の誕生』の大角修さんは、細かな天候の調査から
東京出発は4月2日だと推測されています。
サイト「賢治の事務所」の加倉井さんも2日説を支持、二見ヶ浦で「ありあけの月」を見るのは一日でも早いほうがいいということです。

ということで、私も4月2日の夜東京を出たとします。

4/2(土) 東京発    20:00、20:20、21:00 のいずれかの列車。
4/3(日) 名古屋着  05:00、06:13、06:30 となります。
        名古屋発   05:35、 06:40 (途中亀山で乗換)
        山田着    09:37、  10:11

つまり、伊勢に着いたのは翌4月3日の9時37分か10時11分となります。
大角さんが調査されたようにこの日は春の嵐で
風速10メートル以上の暴風雨で五十鈴川も増水していたようです。
ふたりはたいへんな中を旅したのでした。

まずは前回の修学旅行と同様に外宮参拝。
山田(現伊勢市)駅から徒歩で行ったでしょうが
もしかすると雨風を避け市電を使ったかもしれません。
賢治はこの伊勢の旅の短歌を十二首、残しています。( )内は新校本全集の番号

伊勢
杉さかき 宝樹にそゝぐ 清(せい)とうの 雨をみ神に謝しまつりつゝ(763)
かゞやきの雨をいたゞき大神のみ前に父とふたりぬかづかん(764)

外宮を出て、ここからはやはり今回も自動車を使ったようです。
というのも、新校本には「外宮参拝後、徴古館、農業館を見たあと内宮に向かい」とあり、
乗合自動車の外宮内宮間はちょうど徴古館、農業館の横を通る御幸道路を使うコースだからです。
おそらく、賢治は5年前の修学旅行でここを通った時、
時間的に無理だったので叶わなかったものの見学をしたかったと思ったのではないでしょうか。
御幸道路コース地図

今回は朝の到着で時間もたっぷりあり、
雨風も強いので室内の見学はちょうどよかったのだと思います。
外宮参拝と自動車10分弱として
徴古館、農業館に着いたのは10時半~11時ころ。
2館合わせて2時間くらいはゆっくり見てまわることはできたと思います。
そこから再び乗合自動車で10分弱 、内宮に着くのは12時半過ぎ~13時過ぎ。
先に内宮前のおはらい町あたりで昼食をとった気がするのですがどうでしょう。

降りしきる雨のしぶきのなかに立ちて、門のみ名など衛士(えじ)は教へし(765)
透明のいみじきたまを身に充(み)てゝ五十鈴の川をわたりまつりぬ(766)

内宮の衛士見張所は宇治橋の袂にあります。
現在は宇治橋の右にありますが、この建物も式年遷宮によって建て替えられるので
当時橋の南北どちら側にあったかはわかりません。

五十鈴川 水かさ増してあらぶれの人のこころもきよめたまはん(767)
みたらしの水かさました埴土(はに)をながしいよよきよきとみそぎまつりぬ。(768)
いすず川 水かさ増してふちに群るるいをのすがたをけふは見ずかも(769)
硅岩(けいがん)のましろき砂利にふり注ぐいみじき玉の雨にしあるかな。(770)

 内宮
大前のましろきざりにぬかづきて、たまのしぶきを身にあびしかな。(771)
五十鈴川 水かさ増してはにをながし天雲ひくく杉むらを翔く。(772)
雲翔くるみ杉のむらをうちめぐり 五十鈴川かもはにをながしぬ。(773)

(771)の歌の前に「内宮」と題されていますが、歌が時系列で並んでいるとすれば、(763)(764)は外宮参拝と考えられ、(765)は内宮の衛士かと思いますが、外宮の可能性も十分あります。少なくとも(766)以降がすべて内宮での歌です。
理由は五十鈴川が詠まれているからです。

賢治が なぜ(771)の前を「内宮」としたのかはわかりませんが、
正殿前での歌だからでしょうか…。謎のひとつです。

参拝を終え、ふたりはふたたび五十鈴川に架かる宇治橋を渡り戻り
それから二見ヶ浦へと向かいました。

ここまでの行程だと15:00前後には二見に着いたことと思います。
天候も悪く、長旅の疲れもあったことでしょうから
早めに宿に落ち着いたのかもしれません。
雨降りしきる伊勢神宮は、賢治の心にどう作用したでしょうか。

翌朝は昨日とは打ってかわって晴天。

ありあけの月はのこれど松むらのそよぎ爽(さや)かに日は出でんとす。(774)

5年前は夫婦岩で、夕日を同級生達と見た賢治。
今回は月残る空に朝日が登るのを父とふたりで拝んだのでしょう。

それから7:13発の参宮線で亀山に行き関西本線等を乗り継いで比叡山へ向かいます。
ここからの京都・奈良の旅については
『宮沢賢治の詩の世界』で浜垣さんが詳しいレポートをしてくれています。
「坂本~比叡山~三条」
「京都における賢治の宿(1)」
「宮沢賢治研究会・比叡山セミナー」
などなど

前回と合わせ賢治の伊勢参りについて考えてみましたが、
時間的な流れと、使った交通機関、通った道がわかってきました。

雨と風のなかでぬかづいた伊勢神宮の深い森は
賢治のなかに渦巻くものを浄化する働きをしたでしょうか。
5年前に見た海を、賢治は父に見せたくて
二見に行ったのかもしれないとふと思ったりもします。

賢治の伊勢参り(1) [調べたこと]

先日の日曜日、ふらりと寄った地域の「古本まつり」で思わぬ収穫がありました。

そのひとつは『懐かしの写真集 伊勢の市電』(勢田川出版)。
えっ、伊勢に市電が走っていた…!?
そういえば遠い昔に聞いたことがあるような、ないような。
いずれにせよ私の記憶からはすっかり消えてしまっていたことでした。
ページをめくると生まれ育った町の懐かしい風景がいっぱい。
子供の頃に引き戻されると同時に到来したひとつの閃き。
賢治の伊勢参りの足取りのヒントです。

賢治は大正5年3月の盛岡高等農林の二年の修学旅行と
大正10年4月の父子旅行のときに伊勢参りをしています。

京都からの汽車については、何時発の何処行きに乗ったか何時に着いたか
などが校本全集でも明らかにされていますが、
伊勢での移動手段はどうだったのでしょうか。
山田(現伊勢市)駅から外宮までは歩いていっても
たいした距離ではありませんが
その先の内宮やまして二見となるとちょっとたいへんです。
果たしてどのように移動したのかというのが
ずっと知りたいと思っていたことでした。
市電が走っていたとなると、手がかりがありそう、
ということで、少し調べてみました。

明治~大正にかけての伊勢の交通について以下のようなことがわかってきました。

【鉄道】(参宮鉄道)
   ・明治26年12月31日 参宮鉄道が津ー 宮川間開業
   ・明治30年11月11日 宮川ー 山田開業、全線開通
   ・明治40年10月1日 鉄道国有法により国有化  
   ・明治44年 山田 ー 鳥羽間開業

【自動車】
   ・明治35年、参宮自動車会社が蒸気自動車ロコモービルで伊勢参宮道路を路線に乗合自動車を開業。しかし、間もなく転覆・故障で廃業。 
   ・明治44年(45年?)参宮自動車がT型フォードで外宮・内宮間の乗合自動車を開始。大正7年に伊勢電鉄に吸収合併され、バス事業が兼営される(後の三重交通)。

【市電】
  ・明治36年8月 宮川電気が山田(伊勢)の本町と二見間を開通。
  ・明治37年2月 宮川電気が伊勢電気鉄道と商号変更。
  ・大正3年11月 山田駅前、内宮前、二見の3地域間の全線が開通。
  ・大正11年5月 伊勢電気鉄道が三重合同電気と改称。
  ・大正14年8月 朝熊登山鉄道(ケーブルカー)開通。
  ・昭和19年2月 いくつかの改称を経て三重交通と商号変更。(ちなみにこの頃の運賃は一区5銭)
  ・昭和36年1月 市電の運輸営業を廃止。

 賢治の文章にもあるように、かつて山田は「神都」ともいわれました。そのため伊勢の市電は神都市電とも呼ばれ、市民はもとより伊勢参りや二見への観光客の重要な足となって活躍していたらしいのです。
 賢治の時代には、乗合自動車、市電、鉄道がすでに整っていたと言えるでしょう。

次に、賢治の大正5年の伊勢参りについて見てみます。

《大正5年》
新校本16巻下の年譜篇によれば旅行は3月27日に京都で解散となり、
翌28日賢治を含む同志12名で伊勢に行き二見ヶ浦に泊、
翌日、鳥羽から汽船で蒲郡へ渡り汽車で三島へ。

同じく16巻下補遺・伝記資料篇を見ると
朝9時55分京都発に乗り、草津・柘植経由して
山田(現伊勢市)駅に着いたのは午後3時43分となっています。

この年の7月に発行された校友会報には、
10人で分担して「農学科第二学年修学旅行記」を書いていますが
賢治の担当は奇しくも伊勢の部分。((^O^)喜!)
そう長くないので全文引用します。

『午前八時十二名よりなる伊勢参宮の一体は先生並に一同に厚く旅行中の御尽力を謝し、九時発の上り列車にて伊勢路に向かつた此の一行は人員も最も多く僕も亦此の一員なれば僕は此の行について書かう。
見送りに来て呉れた一同と互いに健康を祝して汽車は勢よく京都駅を発した。草津を過ぎ逢坂の関を越え鈴鹿の突道を出て後は伊勢独特の渺々たる菜種畑の真只中を一直線に南下するのである。伊勢米の産地たる安濃一志の大平原を過ぎて神都に着いたのは午後三時である。山田市の市民は今や皇后陛下の行啓を迎ふべく混雑を極めて居る時であった。先づ外宮に参拝し自動車にて直ちに内宮に向かふ。五十鈴川の清き流れに顔を洗ひ大樹森々たる御苑の中を縫うて進めば其の神々しさは言語に絶し神前に対する時自ら頭の下がるを覚えた。日露戦役の記念品を見旧街道を見物して後二見ヶ浦に向ひ直ちに立石に行けば折から名物の伊勢の夕凪にて一波立たず油を流したるが如き海上はるかに知多の半島はまぼろしの如くで其の風景の絶佳云はん方なしだ。一同二見館に宿り翌朝日の出を拝し静かなる朝凪を利用して汽船にて三河国蒲郡に着し直ちに東京に向かった。(完)』
(「同第十四巻雑纂本文篇」より)
※太字は私。
なお、同校異篇には 「※「草津を過ぎ逢坂を越え」はコースと逆になっており、誤りか。」 とあります。

先にも書いたように「神都」というのは伊勢のことで、
二見ヶ浦の「立石」というのは夫婦岩のことです。

さて、この時の外宮から内宮へは、「自動車にて」とあります。
混雑もしており午後も遅く時間もあまりないので、皆で「直ちに」目の前から出ている自動車に乗ったのだと思います。この自動車というのは恐らく、参宮自動車の外宮・内宮間(御幸道路)を走るT型フォードだったのではないでしょうか。この自動車には11~12名が乗れたようなので、ちょうど同行者全員が一台に乗れたのでしょう。「乗合い」というのは、区間が決まっていたようなのでタクシーというよりバスの小型のものですね。
午後3時43分に山田着だとすると、駅から外宮までは3~400m程なので徒歩でも5分あれば外宮に着きます。4時頃参拝し、長居はせずに4時半には自動車に乗ったとします。内宮までの距離は5~6Km程度。T型フォードの最高時速は64Km・hだそうなので、実際の速度が平均30Km・hとしても15分もあれば到着。時頃着。内宮は参道も長く参拝に1時間くらいはかけるでしょうか。
ここで賢治達は「日露戦役の記念品を見」たとありますが、この記念品って何だ?と思い、再び調べてみるとどうもこれらしいです。
→伊勢内宮奉献日露戦役砲
昔はこんなものを意気揚々と戦利品として展示してあったのですね。
他にもこんなものも
→内宮神苑日本海海捷紀念砲 
これもきっと賢治は見てますね。

参拝を終えた6時頃はもうあたりは暗くなりつつあります。
問題(?)は次の「旧街道を見物して」です。
旧街道というのは外宮の南端を御木本道路を横断し保育園横の細い道を入って東へ向かい尾上町の小田の橋を渡り、古市(ふるいち)の丘陵を越えて猿田彦神社を経て今のおはらい町を通って内宮に至る街道です。
   →古市街道  
   →古市街道と古市遊郭の歴史:十三のいま昔を歩こう記事の終わりの地図も参考になります!
   →参考サイト「伊勢街道歩き その12 伊勢神宮外宮~内宮」

古市のこの丘陵は間の山(あいのやま)とも呼ばれ、有名な歓楽街で大正時代まではまだ幾つかの遊郭も残っていたらしいのです。かつては見世物小屋などもあったということ。
この街道を内宮側からさかのぼって、血気盛んな若者達が古市に行ったということはなきにしもあらず、と可能性を考えてみました。しかし、古市までは内宮から歩いて2.5~3Kmくらい、となると片道30分。ちょっと時間的に無理があるかな…?それにとんぼ返りでもない場所だし。ということで一応この説は却下。
ちなみに古市は、賢治の愛読書であった中里介山の長編時代小『大菩薩峠』(大正2年から連載)にも出てきます。ただし「間の山の巻」は大正6年10月25日 から都新聞連載なので、この旅行のときには賢治はまだこの小説を読んでいません。なのでそのゆかりの地を見に行くということもないでしょう。
ということで、おはらい町=現在の土産屋や食堂などが建ち並んでいるあたりをさっと見て、早々に二見に向かったのではないでしょうか。
内宮から二見までは、市電しか通っていません。賢治の文章によると 立石を見て夕凪の絶景に云うことなし、と書いているので、暗くならないうちに二見に着いたことになります。

足取りをまとめると

山田駅 着   15:43
  ↓  3~400m 徒歩5分 
                   →山田駅前               
                   →山田駅前
外宮 着   16:00
   ↓        参拝 
外宮 発   16:30
   ↓    5~6Km 自動車15分(時速30Km/h) 
                   →乗合自動車のコース(御幸道路)                         
                   →参考サイト
                   →御幸通り起点
                   →倉田山徴古館 

内宮 着   16:45
   ↓   参拝、旧街道見学 
                   →古い写真に見るおはらい町
                   
内宮 発     17:45
  ↓    約10Km  市電30分(時速20Km・h)
                   →【伊勢まるごと博物館】神都線(路面電車~ケーブルカー)  
                   →参考サイト2

市電二見駅 着  18:15
   ↓    約1.3Km 徒歩15分
夫婦岩 着 18:30
                   →夫婦岩
                   →伊勢二見ヶ浦夕日の光景
                   →二見ヶ浦

   ↓   約400m 徒歩5分
二見館 着   19:00
                   →二見館   


1916年3月28日の日没は18:10頃。
日没後30分くらいは明るいとして、海景色を見るにはぎりぎりでしょうか。向こうには知多半島が見えたといいます。夕暮れの二見の海を一行は楽しんだことでしょう。この日の二見の干潮は19:00ころ。夫婦岩もよく見えたでしょうね。
ちなみに、宿の二見館は市電二見駅から夫婦岩までの途中にあります。チェックインをして荷物を置いてから夫婦岩を見に行くのがスムーズですが、暮れがせまっており、微妙なところ。私が推測した時間経過より実際が早くまわることができていればその可能性も充分あります。


明けて3月29日には、参宮線を使って二見から鳥羽へ行き、蒲郡行きの汽船に乗っています。
新校本全集の時刻表によれば参宮線は山田から鳥羽まで23分で行っています。二見はそのほぼ中間に位置しているので15分もあれば行くはず。
宿から二見駅までは約1Km。6時前に宿を出て15分ほど歩き、早い列車に乗ったのでしょう。蒲郡で東海道本線に乗り三島への帰途につきました。

鳥羽港 発   6:30
                   →鳥羽港停留所
                   →鳥羽港
蒲郡 着   12:00
蒲郡 発   13:20
三島 着   19:05

余談ですが、私が通っていたのは外宮の南、御木本道路をはさんで反対側にある明倫小学校。住んでいたのは明倫小学校のすぐ東のあたりです。外宮の勾玉池周辺はよく遊んだ場所。途中で引っ越しをしたので、中学には古市街道を行って麻吉旅館の前の石段を上り下りして通っていました。帰りには麻吉の玄関前に置いてある長椅子に腰掛けて、よく友だちとおしゃべりしたものです。階段を上りきって一休みにちょうどよかったのですが、今思えば迷惑だったかもしれませんね。麻吉というのは、古市に遊郭があった頃の風情を残した唯一の建物で、現在も旅館として営業している貴重な建物ですが、当時はまったく、その価値を知りもしませんでした。
→麻吉旅館
→麻吉全景

ちなみに現在の私の住まいは蒲郡の隣接市です。
それがどうした、ですが…。
 
大正10年の伊勢参りについてはまた次回へ。

ekimae.JPG
山田駅前(「伊勢の市電」より)

ekimae2.JPG
昭和40年代頃の伊勢市駅前(同)通りを挟んでジャスコ本館・別館がそびえ立っていました。

ekimae4.JPG
山田駅前ぎわいの様子

hutaき写真+3.JPG
二見駅(同)


その他参考にさせて頂いたサイト
 いにしえの伊勢
 明治30年代の日本の乗合自動車営業
 伊勢志摩における観光開発の展開と経済的効果
 アメリカングラフィティ50s~60s
 Wikipedia日本のバス
 伊勢すずめのそぞろある記
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