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「図書館幻想」はいつか [妄想]

前回、書簡102aについて賢治と嘉内が大正8年の1月初めに会ったのではないか、
という記事を書いていて
その待ち合わせ場所はもしかして帝国図書館かと書きました。

帝国図書館ならやはり図書館幻想

そして文語詩

〔われはダルケを名乗れるものと〕

  われはダルケを名乗れるものと
  つめたく最後のわかれを交はし
  閲覧室の三階より
  白き砂をはるかにたどるこゝちにて
  その地下室に下り来り
  かたみに湯と水とを呑めり
  そのとき瓦斯のマントルはやぶれ
  焔は葱の華なせば
  網膜半ば奪はれて
  その洞黒く錯乱せりし
  かくてぞわれはその文に
  ダルケと名乗る哲人と
  永久(とは)のわかれをなせるなり

そしてここで、もしや賢治が書いた「図書館幻想」は大正10年7月18日ではなく
この大正8年1月のことか?という疑念が。

一般に二人は、大正10年7月18日に東京で会い、激論したとされています。
その舞台が上野の帝国意図書館ではないかというものです。
しかし、この日の嘉内の日記(『国民日記』)に書かれているのは
「宮澤賢治 面会来」という文字。

普通は、待ち合わせて会った時には「面会」という言葉は使わないと思います。
しかも面会“来”なのですから。
嘉内はこの時、7月1日より再度の甲種勤務演習に応召し入営していました。
なので私はきっと賢治が兵舎に面会に行ったのではないかと思っています。
『国民日記』には、18日以前に兵舎に面会に来た人があることが記されています。
賢治も同じように面会に行った可能性は大きいとおもうのです。
さらに7月18日は月曜日です。
勤めを終えた嘉内と賢治が図書館で落ち合うより
面会に行ったという方が自然ではないでしょうか。

嘉内がいつか一緒に法華経を信仰してくれると疑わなかった賢治が
大正8年の激論で、嘉内がそれほど自分とは信仰の道を違えていることを思い知り
大きなショックを受け、
その後にも再び大正10年に会い、国柱会という入り口を準備して口説こうとはしたものの
やはり説き伏せることはできなかった。
ダルゲ(ダルケ)が嘉内のことだったとして、
それらの出来事が賢治の中で一つになって作品として出来上がったとしても
おかしくはないと思います。

「図書館幻想」は大正10年11月ころに書かれたようですが
(新校本宮澤賢治全集第12巻校異編P173)
そこには「別れ」はありません。
一方文語詩は晩年に書かれているとすれば
もはや再会することは難しいという思いから
「永久(とは)のわかれ」を記した…とも考えられるのではないでしょうか。


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