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会えたのに会わなかった? [妄想]

少し前に書簡102aが書かれた時期についての記事(→こちら)を書きました。

大正8年1月初めに賢治と嘉内は会い、
書簡102aをその直後に書いたのではないか、という内容でした。

その推測に関することが
もうひとつあったのを書き忘れていました。

新校本全集第16巻の年譜によると
 二月下旬 トシ退院し、雲台館に静養。母イチ、叔母岩田ヤスが上京。
 三月三日(月)トシ、ひなの節句を祝い、母、叔母、賢治に付き添われ帰花した。
とあります。
賢治達が花巻に帰ったのは3日。

一方、保阪嘉内は河本義行らの卒業分散会に参加するため
3月4日から12日にかけて盛岡に行っています。
退学にさえなっていなければ、嘉内も彼等と一緒に卒業していたはずでした。

ここで疑問です。
お互いに日程を調整して、
嘉内が東京で途中下車し賢治に会ってもよさそうなものです。
もし、すでに花巻に帰っていたとしても
賢治が盛岡に行ってもいいはずです。

しかし、全集の年譜を見る限り
賢治がこの時盛岡に行った気配はありません。
嘉内や義行が花巻に来たということもなさそうです。

年譜だけでなく
書簡144は4月に出されていて
「お手紙ありがたう存じます 私こそ永々と御無沙汰致しましたが…」
と書かれています。
仮に3月に会っていたなら「御無沙汰」というのはないと思います。

ではなぜ、会わなかったのでしょうか。
トシの病気が全快したわけではなく
長く店番の仕事から離れていたために父への遠慮から、
賢治は盛岡に行くとは言えなかったのかもしれません。

ですが、やっぱり、ふたりが1月初めに会って口論になり、
その直後に賢治はあんな手紙(102a)を書かずにいられなかったからで
しばらくはお互い苦い思いをしていたからではないでしょうか。

妄想が妄想を呼んでいるのかもしれませんね~。
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